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養生訓 巻六 醫を擇ぶ 鳳凰堂流解釈④

原文を現代文に改変

文學ありて醫道に詳しく、醫術に心を深く用い、多く病になれて其變をしれるは良醫なり。

醫となりて醫學を好まず、醫道に志しなく、又醫書を多く読まず、多く読んでも、精思の工夫なくして理に通ぜず、或いは醫書を読んでも、𦾔説になづみて、時の變をしらざるは賤工なり。

俗醫利口にして、醫學と療治とは別の事にて、學問は病を治するに用なしと云いて、わが無學を飾り、人情に慣れ、世事に熟し、權貴の家に諂い近づき、虚名を得て、幸いにして世に用いらるる者多し。是を名づけて福醫と云い、又時醫と云う、是醫道にはうとけれど、時の幸ありて、祿位ある人を一兩人療して偶中すれば、其故に名を得て世に用いらるる事あり。

才徳なき人の時に遭い、富貴になるに同じ。およそ醫の世に用いらるると用いられざるとは、良醫の選んで定むる所為にはあらず。醫道を知らざる白徒のする事なれば、幸いにして時に遭いて流行行わるるとて、良醫とすべからず。其術を信じ難し。

鳳凰堂流意訳

学問を深く学び、医道にも詳しく、医術に心を深く用い、多くの病を診療して慣れその変化を知っている人は良医と言える。

医師となっても医学を好まず、医道に志しなく、又医学書を多く読まず、多く読んでも、精思の工夫なく理に通じない或いは医学書を読んでも、旧説ばかり盲信し、時の変化を知らないのは賤しい医師である。

俗人の医師は利口であり、医学と療治とは別の事であり、学問は病を治するには用がないと言って、自分の無学を飾り、人情に慣れ、世事に熟し、金持ちの家に諂い近づき、虚名を得て、幸運に世に用いられる人も多い。

これを名づけて福医と言い、又時医と言う。

このような人は医道にはうといが、時の幸があり、職位がある人を1人〜2人治療して偶々うまくいけば、名を得て世に用いられる事がある。

才徳がない人が時勢に乗り、富貴になるのと同じである。

医師で世に用いられる人と用いられない人とは、良医が選んで定められるものではない。

医道を知らない素人がする事であり、幸いにして時に遭い流行るとしても良医として認めてはいけない、その術は信じるに値しない。

鳳凰堂流解釈

鳳凰堂は医師ではなく鍼灸師ですが、東洋医学、中国伝統医学に関しては医師以上の知識と経験を踏まえた上でないと開業できないと思い、開業までに10年近くかけています。

才能は当然の事、地道な積み重ねを行えない人は医療に従事すべきでないと言う思いは貝原益軒と同じです。

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