養生訓巻第一 貝原篤信篇録 総論上 ㉞ 鳳凰堂流解釈
養生の道は、欲しいままにすることを戒めとし、慎む事を主とする。
欲しいままとは欲に負けて慎まないことである。
慎みは欲しいままの裏である。
慎みは大本に畏れがある。
畏れとは大事にする事。
俗の諺に、用心は臆病にせよと言うものがあるがそれと同じである。
孫真人も、養生は畏れる事を本とすと言っている。
これが養生の要である。
養生の道においては、けなげなるは悪く、畏れ慎む事、常に小さい一橋を渡るように行うべきである。
これが正しく畏れる事である。
若い時は血気盛んな為、強さにまかせて病を畏れず、欲をほしいままにする為に、病が起こりやすい。
全て病は原因なしに無からは起こらず、必ず慎まないことにより起こる。
特に老年は身体が弱いので、1番おそれるべきである。
畏れなければ老若ともに多病にして、天命を保ち難い。
鳳凰堂流解釈
前節までは、貝原益軒の主張と鳳凰堂は違うところも多々ありました。
しかし、ここまで通して読むと、一旦この結論を提起したいからこその流れであれば至極納得がいきます。
鳳凰堂は恐れを声高に言わずとも、今の人は分かっているものとして、信頼して書いています。人は成長の過程で失敗するもの。失敗から学ぶ方が確実に心に刻まれるからです。
貝原益軒は母のように、また父のように人の健康を慮って書いています。
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