「鬼ごっこって何分やるんですか?」「年齢や体調によって、まるで違っていいんです」
ちょっと事情があって、塩谷舞さんの『ここじゃない世界に行きたかった』を読み返していた。色々読書メモもあり、それを眠らせておくのももったいないから、読みながら考えたことなどを書いてみたい。かなり他愛ない話なんですけどね。
まずは書き出しの文章がいいよね、って話。
本のそれっぽい読み方として、書き出しにその後の文章を予告する何かを見つけるというものがあって、確かにそういうモチーフが冒頭にあると、読んでいてわくわくする。
実際に読み通してから、もう一度冒頭に返ってくればわかることだが、「(誰かの)目」、「臆病」、「親/姉」(地元や家族)、「ベッド」、「小規模」など、その後の文章を思わせるようなモチーフが書き出しにすでに登場している。
こういうノリで、「はじめに」から、その後につながるモチーフを拾い集めることもできるのだが、まあこれくらいにしておこう。
「パープルワーズ」を話すには、もっと時間が必要
今回読み直して印象に残ったのは、「SNSを眺めていると、さまざまな対立構造ばかりが目立ち、細部の個性がかき消されているように感じて、それが少し怖いのだ」という発言だった。この世界からは、グレーゾーンや小さな声、割り切れない細部がますます見えにくくなっていると塩谷さんは考えている。
この考えに触れたとき、リチャード・ローティというアメリカの哲学者を反射的に思い出した。100年ほど前にニューヨークで生まれ、塩谷さんが渡米する10年ほど前に亡くなったローティは、あるときメールで「紫の言葉」を話したいと語ったそうだ。つまり、赤にも青にも分類しきれない細部を備えた「紫の言葉」を。
驚くべき符号だが、「大統領選、その青と赤のあわいにある、さまざまな色たち」という文章では、青(民主党)と赤(共和党)の党派的な対立が激化し、どちらにも分類しきれない、割り切れない思いや、相手の微妙な立場に対する想像力の欠如について語られている。
それは、ローティが大学を辞して語りたいと願った「パープルワード」の一つなのかもしれない。二項対立の構図に絡めとられない、もっと注意深くて曖昧な、「あれかこれか」という分類を拒絶するような、密かで小さな声と共に発する言葉。
そして重要なことだが、そういう「あわいにある、様々な色たち」について語るには、「もっと時間」がいる。忙しい状況では、パープルワーズを話すことができない。
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