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「流れる雲のように」 第8話 末井昭

8. 黒い太陽

イラスト: 東陽片岡

駒込にある作画会という会社は、看板やディスプレイを請け負う会社でした。

僕が配属されたのはデザイン部でしたが、デザインといっても大半は看板のデザインでした。しかし、看板のデザインであっても、その会社に入ったことは、工場という牢獄から解放されたような、新しい世界に旅立つようなわくわくした気分でした。

会社は染井墓地の近くにあって、民家のような2階建ての建物の1階が作業場、2階がデザイン室になっていました。デザイナーは男ばかりで、僕を入れて6人いました。後楽園、東京トヨペット、東京タワーなどがクライアントで、たまに後楽園遊園地のポスターの仕事も回ってくるのですが、そういうグラフィックデザインは先輩デザイナーの仕事で、僕らはトレシングペーパーに看板の10分の1のスケールで文字を配置して色を決めるのが主な仕事でした。それをコピーして(この頃は青ヤキでしたが)1階の作業場に持って行くと、職人さんが看板に仕上げてくれます。

ときには、職人さんと一緒に看板を取り付けに行くこともありました。自分がデザインした看板が取り付けられるのを見ていると、これまで味わったことのない仕事の歓びのようなものが沸き上がってくるのでした。

性格が内向的なこともあって、社会に出てから友達は1人も出来なかったのですが、作画会に入った頃から自意識が膨らんできて、さらに友達が出来にくくなっていました。

唯一の友達は、僕より少しあとに入社してきた近松さんという年上のデザイナーで、僕と同じ『デザイン批評』の愛読者ということもあって、喫茶店でよく話をするようになりました。

『デザイン批評』とは、風土社という出版社が1966年11月に創刊した季刊誌です。編集委員は粟津潔、針生一郎、川添登、泉真也、原広司といった人たちで、商業というものに支配されたデザインのあり方を批判するとともに、その中心にあるモダニズムを再検討・再批判する雑誌でした。

僕が熱心に読み始めたのは1968年2月発行の第5号目からで、ちなみにその号の特集は、もろ「権力とデザイン」でした。

『デザイン批評』はほとんどが活字で、知識のない僕には何を書いているのかわからないところも多かったのですが、熱気のようなものが伝わってきました。「デザインとは自分をexposeさせることだ」「デザインとは開いてはいけない扉を次々開いて、あばき出していくことだ」という粟津潔さんの言葉にシビれ、粟津潔さんや横尾忠則さんの前近代的なモチーフを取り入れたデザインに憧れ、僕もいつか自分の情念をぶちまけたデザインをやりたいと思うようになっていました。そして、母親のダイナマイト自殺や極貧生活、村人からの差別などを経験している自分は、その資格があると思うようにもなっていました。

青山デザイン専門学校では、お金だけ取られてほとんど何も習わなかったのですが、『デザイン批評』を読み始めてからは、自分がどんどん解放されていくようで、この雑誌を学校のように思っていました(『デザイン批評』から派生した『現代デザイン講座』全6巻を購入して勉強したり、風土社が新宿のお寺でやっていた「公開デザイン塾」にも参加していました)。

そういう反体制的なデザインの話を、近松さんと喫茶店で話しているときは、時間の経つのも忘れるほどでした。1冊のノートに自分が思っていることを書き、それを近松さんに渡して、近松さんが自分の意見を書くという、交換日記のようなこともやっていました。僕が観念的なことを書くと、近松さんがやんわり批判するというパターンが多かったように思います。

やはりグラフィックデザイナーは絵の基礎がしっかりしていないといけないね、ということで、駒込駅前のギャラリーでやっていたクロッキー教室に、近松さんと通ったこともありました。男ばかり10人ほどで1人の全裸の女性を取り囲んでいる光景は、まるでストリップショーみたいで、僕は絵を描かないでモデルの胸と陰毛ばかり見ていました。

残業になるときもときどきあって、夜の8時を過ぎると誰かが「中華屋に電話するよ。出前取る人いる?」と言います。僕はお腹は空いていたのですが、お金がなかったので「僕はいいです」と言うと、近松さんが「僕がおごるからラーメン取ろうよ」と言ってくれました。

中華屋の出前が来て、「はい、ラーメン2つで360円」と言うと、近松さんは「すみません。ツケといてください」と言うのでびっくりしました。近松さんもお金を持っていなかったのです。「ツケったって、うちはツケやってないんだよ」と出前は怒ったように言います。結局誰かが立て替えて払ってくれたのですが、出前に「ツケといてください」と恥ずかしがることもなく言える近松さんに、僕はコンプレックスを感じていました。人目を気にしたり、傲慢だったり、観念的なことばかり考えている僕に対して、近松さんは生活者としてのリアリティがありました。そのリアリティにいつも批判されているような気がしていたのでした。

入社して半年ほど経った頃、大森ボウルというボーリング場が開業6周年とかで、それを記念するディスプレイの仕事が入ってきて、僕がそれを担当することになりました。

大森ボウルに打ち合わせに行くと、フロア入口の階段の上の空間に何かデコレーションして欲しい、女性客が多いので、女性に訴えるようなものがいいということでした。その帰りに喫茶店に入り、アイデアをいろいろ考えました。そして、ノートに企画書のようなものを書きました。

「このディスプレイのテーマは女性である。画一化された社会の中で作られた“美しい女性”のイメージに自分を当てはめようと日夜努力をおしまない女性たち。女性の姿がみんな同じに見えるのはそのためだ。このディスプレイは、女性たちにそのことを知らしめるものにしたい。

女性たちに言いたい。あなたたちは虚飾の仮面を被り、心まで虚飾に犯され、人間性を失っている。それでいいのか。あなたたちは何を求めているのか。「愛」とか「恋」とか「夢」とか、あなたたちが好む言葉は、実態がともなわずただ虚しく響くだけ。勇気を持って仮面を脱ぐことを始めよう。そこからしか本当の「愛」、本当の「夢」は掴めない。いますぐその仮面を脱げ!」

「余計なお世話だ、バカか!」と言われそうですが、なんでも反体制的視点でしか見ることができず、しかも稚拙で観念的なことしか考えられないので仕方がありません。そして、その企画に則って、ボウリング場の天井から裸のマネキンに仮面を被せてぶら下げ、その周りに無数の仮面をぶら下げ、白い布のノボリに愛・恋・夢の文字を書いてそれをなびかせるという、なんとも陳腐なアングラ芝居風デコレーションを考えたのでした。そんなディスプレイをボーリング場がやらせてくれるだろうかとは、不思議なことにまったく思いませんでした。馬鹿だからと言ってしまえばそれまでですが、おそらく表現したいという欲求だけで、周りは見えていなかったのだと思います。

そのアイデアを絵にして先輩デザイナーに見せると、先輩はポカンとしていました。「何? これ?」という顔です。当然不採用です。当たり前と言えば当たり前なのですが。

しかし僕は、近松さん以外はみんな馬鹿だと思っていたので、「そうか、わからないか。商業主義に毒されたお前にはわからないだろう!」と心の中で思いながら、先輩デザイナーを睨み付けていました。

そういう僕のまともには聞いていられない話をまともに聞いてくれる人が、もう1人いました。僕より15歳ほど年上の営業部の吉本さんという人で、一緒に営業先に打ち合わせに行ったときなど、喫茶店があると「ここ入ろうか」と言って、僕の話を聞いてくれました。

吉本さんは営業でも文学や芸術が好きで、背が高くハンサムな人でした。やっと近松さん以外にも話せる人ができて、堰を切ったように訳のわからないデザイン論をまくしたてていました。

近松さん以外には話さないと決めていた母親の自殺の話も、吉本さんに話しました。最初は興味深かげに聞いてくれていたのですが、僕が何回もその話をするので嫌になったのか、「それがスエイくんの売り物なんだね」と冷ややかに言いました。売り物?………。その「売り物」という言葉が、僕の心にグサッと刺さりました。自分が軽蔑されたようにも思い、恥ずかしくて顔が真っ赤になりました。それ以来、母親の自殺の話は誰にも話さなくなりました。

入社して1年ほど経った頃、近松さんが退社しました。唯一の友達がいなくなるので寂しかったのですが、近松さんは「ときどき会おうよ」と言ってくれました。

近松さんは蒲田にあるハワイというキャバレーに勤めていました。そこのほうが給料がいいと言っていました。建物の1階が店で、2階が仕事場だそうで、そこで1人でチラシやポスターを作っているのだそうです。

床が木で出来ていて、そこに開いている小さな穴から下を見ると、お客がホステスのパンツに手を入れているところが見えるそうです。僕はキャバレーに行ったことがなかったので、そこがどんなところかわかりませんが、なんだかまったく違う世界へ近松さんは行ってしまったように思いました。

何度目かに近松さんと喫茶店で会ったとき、「これ作ったんだよ」と言ってA3サイズのポスターを見せてくれました。それを見て、僕はぶったまげました。

それはシルク印刷で刷った銭湯に貼るホステス募集のポスターでした。バックが黒い日の丸、手前が波、そして真ん中で赤い唇の女がフェラチオしている絵が描かれていて、原色の蝶々飛んでいました。その上に「ホステス募集 日払いあり 蒲田ハワイ」とかの文字が入っているのですが、このポスターを見てホステスさんが集まるかどうか、その前に風呂屋がそのポスターを貼るかどうかの問題はあるにしても、作品として素晴らしいと思いました。バックの黒い太陽に、近松さんの情念がこもっているように思いました。先を越されたとも思いました。

僕は嫉妬しながら、そのポスターをいつまでも眺めていました。

(続く)


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