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「流れる雲のように」 第5話 末井昭

5. 牛乳配達と三畳間と集会

僕は中学生のときから工場に憧れ、高校を卒業するまでは工場で働けばお金がいっぱい稼げると思っていたのですが、何を根拠にそう思っていたのでしょうか。お金というものとめったに出会わない田舎にいたので、都会自体が黄金色に輝いていたのかもしれません。テレビから流れてくる高度経済成長期の社会のムードも影響していたかもしれません。

世の中そんなに甘いものではないということを、大阪の工場で働くようになってすぐ知ったのですが、川崎に来てからも同じでした。工場労働者の賃金は安く、洋服を買うでもなく、酒を飲むでもなく、もちろん女の人のいるようなところに行くでもなく、せいぜい映画を観て喫茶店に入るぐらいだったのですが、それでも給料は1ヵ月できれいになくなっていました。もちろん貯金などなかったので、アパートを出て自立するために牛乳配達のアルバイトを始めることにしたのでした。

工場にはアパートから歩いて通っていました。その道すがら、森永牛乳販売店の前を通りかかると、配達員募集の貼り紙が目に入りました。牛乳配達なら工場に勤めながらもできると思って、「牛乳配達をやりたいんですけど」と言うと、日焼けした顔の店主らしきおじさんが「明日から来てもらえるかなあ」と言います。急な話です。こっちも切羽詰まっていたのですが、向こうのほうがさらに切羽詰まっていたようで、翌日からその販売店で働くことになったのでした。

牛乳配達の朝は早く、4時起きです。日焼けした顔のおじさんに連れられて、牛乳を配る家々を教えてもらい、次の日から1人で廻るようになったのですが、夜更かしの習慣がついていたので眠くて仕方がありません。目は一応開いているものの半分眠ったような状態で、自転車の荷台に牛乳瓶が入った木箱を3つ積み、ハンドルの両脇にも牛乳瓶を入れた袋をぶら下げ、販売店を出発します。僕が任されていたのは平間から鹿島田方面一帯で、府中街道をフラフラ自転車をこいでいると、前方から来るトラックのライトでハッとして目が覚めることが何度もありました。

道幅いっぱいに大きなトラックが前方から来て、避けようとしたら道路脇の溝に落ちたこともあります。牛乳瓶がだいぶ割れ、牛乳をまき散らしたその場にしばらくひっくり返っていました。あのときトラックに轢かれていたら、牛乳まみれになって死んでいたかもしれません。牛乳配達といえども命がけです。

むかしはみんな牛乳を飲んでいたんですね。エンゼルマークがついた黄色い木箱に牛乳を入れ、空き瓶を回収して廻ります。牛乳を積んだ自転車は重いのですが、配っても配っても自転車は軽くなりません。空き瓶があるからです。疲れているときは、内緒で空き瓶をドブ川に捨てたりしていました。

犬に吠えられたときは泥棒に間違われるんじゃないかとビクビクしたり、アパートの外階段を上るときカンカン音がするので住民を起こすと悪いのでそっと登ったり、新聞配達に出会うと牛乳配達より楽そうに見えて新聞配達をやればよかったかなと思ったりしながら、2時間ほどかかって配り終え、余った牛乳を1本飲んで販売店に戻ります。

イラスト: 東陽片岡

牛乳配達のアルバイトを始めたのは、父親と同居しているアパートを出るためだったのですが、デザイン学校に入る目的もありました。

新宿だったか渋谷だったか、デザイン専門学校のポスターを町で見かけたとき、「デザイナーになりたい」と突然思ったのでした。工場から脱出するにはこれしかないと思っていたかもしれません。

もともと絵を描くことが好きで、漫画家になるのが小さい頃の夢でしたが、漫画では喰っていけないと思っていました。デザイン専門学校のポスターを見てグラフィックデザインという仕事があることを知ったとき、漫画はダメでもデザインなら喰っていけると思い、デザイン専門学校へ入る決心をしたのでした。

朝4時に起きて牛乳配達、9時からは工場で働き、夜はデザイナーになるための準備としてレタリングを習うようになりました。通信教育の日美(日本通信美術学院)で、レタリング講座を受講したのです。睡眠時間がどんどん短くなるのですが、工場に行くと昼寝ができるので助かりました。

お金が少し貯まった頃、電柱に貼ってあった「空室あり」の貼り紙を見かけ、家賃3000円というのに惹かれ、その家に行ってみることにしました。

その家は、父親と同居していたアパートのすぐ近くにある平屋建ての一軒家でした。お婆さんが1人で住んでいて、夜が不用心ということもあって部屋を貸しているのだそうです。

玄関横の窓が2つある四畳半の部屋は、すでに女の人が住んでいるようでした。その部屋と襖で仕切られている隣の八畳ほどの部屋はキッチンと風呂がついていて、ここに家主のお婆さんが住んでいました。その隣にやはり襖で仕切られた三畳の部屋があり、それが該当物件です。窓がないため薄暗くかび臭い部屋でしたが、昼間はほとんど部屋にいないのでその部屋を借りることにしました。

早速引っ越しです。引っ越しといっても、家財道具は蒲団とわずかな衣類と机で、アパートから担いで運びました。机はレタリングの練習もあってどうしても必要だったのですが、それを置くと部屋の半分を占めてしまいます。レコードを聴きたくて足つきの小さなステレオを買ったのですが、それも置くと蒲団を敷くのがやっとでした。

その三畳間に住みだしてしばらく経った頃、休みの日に縁側で日向ぼっこをしていると、40前後の身なりの整ったきれいな女の人がやってきました。仕事は何をしているのかとか聞くので、その人としばらく話をしました。その人は「また来ますね」と言って帰ったのですが、いったい何をしに来たのだろうと思いました。でも、女の人に話し掛けられたりしたことがなかったので嬉しくなって、また来ないかなあと思っていました。

それから、その人がときどき来るようになり、来るたびにお菓子や、ときにはパンツなんかを持ってきてくれます。パンツをもらったときはドキドキしました。いつも30分ほど僕の話を聞いてくれるのですが、その人に淡い恋愛感情のようなものを感じていたかもしれません。

日曜日だったと思います。その人が来ていきなり「お寺に行きましょう」と言うので、言われるままその人とタクシーに乗り、どこかのお寺に行きました。そこで何か儀式のようなことをしたあと、小さな掛け軸のようなものをもらいました。その人は「それは仏壇に入れないとダメですよ」と言うので、仏壇屋に行って一番安い3000円の仏壇を買ってきました。その人はそれを見て「もう少しいい仏壇が買えるといいのにね」とガッカリした感じで言うので、貧乏な僕は少し恥ずかしくなりました。

三畳間に仏壇まで置くようになって、蒲団を敷くスペースがなくなってしまったので、僕は押入に寝るようになっていました。そのうち、その人はもう1人の女性と一緒に来るようになりました。そして、その人たちに誘われるまま、集会とやらに行くことになったのでした。

近所の大きな家の広間に20人ぐらいの人が集まっていました。そこで何か話を聞いたのですが、何を話していたかまったく思い出せません。そのうちみんなでお経を唱えだしました。みんなが一斉に大きな声でお経を唱えるのが異様な感じがして、どうしていいかわからなくなったのですが、一応みんなと同じようにお経を唱えるふりをしていました。誘われて行った集会ですが、独りぼっちで寂しかったこともあって、誰かと知り合いになれるんじゃないかと思っていたところもあります。しかし、みんなの中に入っていくことができなくて、逆に自分がどんどん孤立していくようでした。

集会には2、3回行きましたが、だんだん居づらくなり、そのうち行くのはやめました。そのあと、その女の人が1回だけ来て集会に来るようにと言われたのですが、その人に会うのも面倒になり、工場が終わったあとしばらく時間をつぶして帰ったり、日曜日は朝から出掛けたりしていたら、それっきり来なくなりました。

仏壇がじゃまだったので、ゴミと一緒に捨てようと思ったのですが、そのスジの人に見つかるとまずいと思い、お婆さんに断って庭で仏壇と掛け軸を燃やしました。こんなことをするとバチが当たるかもしれないと思ったりしたのですが、果たしてバチは当たったのか、当たらなかったのか、いまもってよくわかりません。

(続く)


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