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「流れる雲のように」 第1話 末井昭

年をとってくると、記憶の遠近法が狂ってきますね。昨日のことがまったく思い出せないのに、30年ぐらい前のことを鮮明に思い出したりします。 これから書いていくのは、僕の20歳前後の話です。タイトルは雲を見ているのが好きだからつけましたが、怒髪天の「流れる雲のように」も好きです。「どんなにあせっても いずれは土の中」ですよね。

いまから45年もむかしのことなのに意外とよく覚えているのは、脳細胞がまだ若かったからでしょうか。あるいは、そのころはめまぐるしく仕事や環境が変わったので、見るもの聞くものが新鮮だったからかもしれません。

イラスト: 東陽片岡

1. 工場、憧れと失望

僕が高校を卒業して就職したのが、大阪の枚方にある日本精線という会社でした。 ステンレスの線を作っている会社でしたが、特別ステンレスに興味があったわけではなく、工場そのものに憧れていたのでした。だから、大きな工場ならどこでもよくて、高校に来た社員募集のパンプレットを見て適当に選んだのがこの会社でした。

なぜ工場に憧れていたかというと、中学生のころ岡山の水島臨海工業地帯を見学に行ったとき、その規模の大きさに驚くとともに、モクモク煙を吐く工場が目に焼きついてしまったからです(まだそのころは公害という言葉もありませんでした)。何か、巨大なエネルギーのようなものに惹かれたと言ってもいいかもしれません。それと、僕が生まれたのは岡山県の山奥の村だったので、なおさら工場がカッコよく見えたのでした。

1960年代のことですから、生産業が時代の先端でした。高度経済成長の後期で、人手不足から、中卒で働く人たちを金の卵と呼んでいた時代で、中学の同級生は半分は金の卵になりました。そういう時代だったので、応募用紙を送れば即採用でした。

この会社を選んだのは、大阪に工場があるということも理由の1つでした。

夏休みに、高校の同級生に連れられて、その同級生の親戚が大阪でやっている小さな工場にアルバイトで行ったことがあります。その同級生はときどき大阪に行っているようで、「大阪の女はきれーじゃぞ」とよく言っていました。確かに、町を歩いている「大阪の女」はみんなきれいでした。

アルバイト中は、豊中のアパートで暮らしていました。このとき初めてスーパーマーケットというところに入ったのですが、カゴに入れたものをレジに持って行くというシステムを理解していなくて、カゴごと持ってアパートまで帰ってきたことがあります。無意識の万引きです。都会の雰囲気に圧倒されてボーッとしていたのかもしれません。

伊丹空港に着陸する飛行機が、轟音を立てながら低空で飛んでいる姿も目に焼きつきました。なにしろ飛行機を見るのも初めてでしたから。

そういう大阪での数週間の暮らしで、大阪がすっかり気に入って、高校を卒業したら大阪に就職したいと思っていました。というか、早く田舎を脱出したいと思っていたので、都会ならどこでもよかったのですが。

同じ会社を選んだのは僕ともう1人、Kくんという同級生でした。2人で山陽本線の電車に乗って大阪に行ったのですが、枚方というところは、大阪と京都の中間ぐらいのところにあるということを初めて知ったのでした。しかも僕らが働く工場は、枚方駅からだいぶ離れた、まわりに何もない荒涼としたところでした。「あれ? 想像していたところと違うぞ」と思ってガッカリしました。僕が想像していたのは、大阪の町のど真ん中にそびえる工場でした。まあ、そんなところに工場はないのが当たり前ですが。

工場から少し離れたところに、鉄筋3階建ての寮がありました。全国(といっても主に西日本と九州ですが)から集められた高校生たちは、この寮で暮らすのです。

僕とKくんは同じ部屋になり、Kくんは研究室みたいなところに配属され、僕は現場で働くことが決まりました。それまで配属先を聞いていなかったのですが、漠然と研究室みたいなところで働くことを想像していたので、このときも「あれ?」と思いました。どういう基準で配属先を決めているのかわかりませんが、僕はKくんより学校の成績がよかったから、Kくんのほうが研究室に配属されるということが納得できませんでした。成績なんか関係なく、単に僕のほうが体がデカいから現場にまわされただけかもしれません。

その現場は、太いステンレス線の先を削って、ダイヤモンドの穴に通して、それをウィンチで巻き取る作業をしていました。ダイヤモンドの穴を何回か細くしていって、だんだん細い線にしていくのですが、線が細くなるにつれときどきパチンと切れて飛んできます。

24時間フル操業で3交替でした。1週目が8時から16時、2週目が16時から24時、3週目が24時から翌朝8時というふうに、1週間ごとに勤務時間がズレていきます。

作業はステンレス線の入れ替えだけで、あとは機械が動いているのを見ているだけですから、肉体的疲労はさほどなかったのですが、夜勤のときはゴーッという工場の騒音がだんだん気持ちよくなって眠くなってきます。そういうときに限って、パチーンと線が切れて飛んでくるので、うっかり居眠りなんかしてると怪我をしてしまいます。

寮は当然男ばかりです。朝と夜はまかないつきで、食堂に行くとワイワイガヤガヤ騒がしいのですが、みんな方言なので何を言ってるのかよくわかりません。何か、自分がとんでもないところに来たんじゃないかという思いが日増しに強くなってきました。

寮の近くにみんながよく行く食堂がありました。酒を飲んだりしてくつろぐ唯一の憩いの場で、僕もときどき行っていました。僕は酒が飲めなかったのでラーメンを頼むと、ドンブリに入ったチキンラーメンが出てきて店主がお湯をかけてくれます。「えっ? これでお金取るの?」という感じですが、それでも美味しいと思って食べていました。

友達を見つけようと思ってラグビー部に入りました。練習は近くのグランドのラグビーコートで、ゴールからゴールまで全速力で走らされました。思っていたより距離があってヘトヘトになりました。2、3回練習しただけで、人数が足らなかったのかいきなり試合に出され、僕は後列フォワードにまわされました。相手は小松製作所で、スクラムのときは足を蹴られたりしながら、数えられないぐらい点を入れられ惨敗でした。

そういう生活も2ヵ月ほどすると慣れてきたのですが、僕が想像していた工場と現実の工場とでは大きなギャップがあり、この先どうなるんだろうと不安になってきました。いや、想像していたというより、工場の外観に憧れていただけで、その中はどうなっているのか、どういう仕事をしているのか、想像したこともなかったと思います。バカといえばバカですけど、なんでもよく調べないで行動してしまうところがあって、それがもとでひどい目に合うこともその後たびたびあります。

田舎にいたとき、よく山に登っていました。山の上で、流れる雲を眺めながら、山の向こうの遥かな先の都会へ行きたい、工場で働きたい、といつも思っていましたが、工場に勤めてわずか2ヵ月で失望に変わっていました。

夜勤明けのときは、よく工場の煙突に登って遠くを眺めていました。そして「ここじゃないどこか」に行きたいと思うようになっていました。

(続く)

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