「流れる雲のように」 第10話 末井昭
10. 夜のお勤め
1年半勤めた作画会を無事退社し、2月からクイーンビー・チェーン企画部宣伝課、正式名称は株式会社根本観光に勤めることになったのでした。
作画会に通勤していたときは、祐天寺から東横線で渋谷に出て、渋谷から山手線に乗り換えて駒込まで行っていましたが、今度は東横線の中目黒で地下鉄日比谷線に乗り換えて上野まで行きます。といっても、まっすぐ上野に行くわけではありません。たいがい日比谷か銀座で途中下車します。
なぜかというと、クインビー宣伝課の始業時刻が午後2時だったからです。勤務時間は2時から夜の11時までで、普通の会社より5時間ほど夜にずれ込んでいます。それに合わせて遅く出ればいいのですが、一緒に住んでいるM子さんが東芝の工場に行くため早く起きるので、僕も一緒に起きてしまうのです。
部屋に1人でいてもつまらないので、9時頃にはアパートを出て電車に乗り、日比谷で降りて映画を観たり、あるいは銀座で降りてぶらぶら歩いたり、喫茶店に入って思い付いたことをノートに書いたりする毎日になりました。そういう時間は楽しいのですが、否が応でも夜の仕事をしている気分になってきて、なんとなく自分が世間からどんどんはぐれて行くような気がしていました。
クインビー宣伝課の仕事は、午後2時15分の朝礼から始まります。宣伝課の人たち20人ぐらいが集まり、係長や課長が話す連絡事項を聞いたあと、みんなで武田節を歌うのが日課でした。武田節は三橋美智也が歌ってヒットした流行歌ですが、威勢がいい出陣の歌であることと、社長が武田信玄ゆかりの山梨出身ということもあって、クインビー・チェーンの社歌になっていました。僕はいまでもソラで歌えますよ。ちょっと歌ってみましょうか。
オリジナルではこのあと詩吟が入って3番に入るのですが、3番の歌詞は忘れてしまいました。腰に手をしてみんなで歌うのが恥ずかしいというか、生理的にそういうことがダメだったので、自然とうつむき加減になります。そうすると、係長から「胸を張ってぇ!」と喝を入れられます。
もっと恥ずかしかったのは、武田節が終わったあと、
と全員で叫ぶことです。社長の名前が根本正だったので、それに当てはめて作った会社のスローガンですが、根性第一、正道営業はいいとしても、本腰勤務はちょっと無理があるように思いました。
武田節にしても根性第一にしても、団結力を高めるためにやっているわけですが、宣伝課の社員たちは自由が好きで、そのため社会からこぼれ落ちたような人が多かったので、みんなバカバカしいと思いながらやっていたのではないかと思います(もちろん僕もそういう1人でしたが)。
宣伝課の人たちは、ガチガチの左翼とか、ヒモをやっていた人とか、芸術好きのカメラマンとか、詩人とか、ちょっと変わった人が多かったので、なかなか人と馴染めない僕でも、わりと早くみんなの中に溶け込めたように思います。
宣伝課の課長はよく怒る人で、怒ることで威厳を保とうとしているような人でした。つまり、まったく人望がない人で、課長に怒られても反省する人は誰もいません。中には怒られるとき、わざと横を向きっぱなしで抵抗する人もいたり、課長と殴り合いの喧嘩をして辞めていった人もいました。
僕が入社して2ヵ月ほど経った頃、その課長が特別研修に行きました。特別研修というのは、役職の人は全員行かされる過酷な軍隊式の合宿だったようです。
特別研修から帰った課長は頭がヘンになっていました。朝礼のとき、みんなの前でいきなり土下座をして、「私が悪かった。許してください」と言って泣き出しました。まあ、日頃からロクでもない課長だということはわかっていましたが、「許せ」と言われても、どう許せばいいのかみんな戸惑っていたようです。
しばらくして、朝礼のとき課長がまたヘンなことを言い出しました。「社長が給料を上げてくださることになりました。髪の長い人は切るように」と言うのだけど、給料が上がることと髪を切ることのつながりがよくわかりません。あとで想像すると、長髪は不真面目に思われているので、給料を上げてくれた社長へ感謝の気持ちを表すためにその長髪を切れ、ということではなかったかと思います。要するに、課長が自分の顔を立てたいということだけなので、髪を切っても何も変わるわけがありませんが、言われるまま僕も床屋に行って髪を短くしました。長髪だった人が反抗的に丸坊主になるということもありましたが、髪の毛問題はこれ1回限りで、僕の髪もまた長くなっていました。
仕事は主にチラシや新聞広告、車内吊りポスター、浴場ポスターなどのデザインでした。僕はグラフィックデザイナーになることが夢だったので、たとえキャバレーのチラシでも、印刷物のデザインができることになったので張り切っていました。
都内にあるクインビー・チェーンの店は、ダンスフロアがあってバンドも入っている大きいキャバレーが2軒、中規模のキャバレーが5、6軒、小さなピンクサロンみたいな店が2、3軒、和風クラブが1軒ありました。キャバレー全店で行う「催し物」というものがあって、その企画を考えるのも宣伝課の仕事でした。
僕が最初に担当した「催し物」は、僕が入る前に決まっていた「嬉し恥ずかし、万国替え歌祭り」というものでした。僕の担当は、新聞広告とチラシです。この「催し物」の意図は、お客さんに替え歌でも歌ってもらって楽しんでもらおう、「嬉し恥ずかし」だからホステスさんと春歌なんかも歌ってエッチな気分になってもらおう、というようなことだったんじゃないかと思いますが、そんなことは僕の頭の中に微塵もありません。
替え歌には民衆のバイタリティがある。武士階級の権力に支配されながらも、江戸庶民は反権力の替え歌を裏で歌い続けていた。いまもフォークソングで「自衛隊ブルース」や、その替え歌「機動隊ブルース」が歌われたりしていて、替え歌には権力に逆らう力がある。「万国替え歌祭り」にはそういう民衆の替え歌精神を盛り込み、エロティシズムも一緒に盛り込んでデザインしたい。それはモダニズムデザインに対抗できるはずだ。俗的な思想が強力な武器となり、モダニズムデザインに打ち勝つのだ。替え歌祭りを発案した人は、単なる思い付きにすぎないであろう。しかし、デザインも思い付きですませてしまうと、全部が思い付きで終わってしまう。思い付きを真の思想まで高めて社会に送り出す仕事を我々はやらねばならない。
とまあ、反体制・反モダニズム小僧は考えて、ノートに綴るわけです。そして、チラシのデザインは、悶えるホステスさんの写真をバックに火炎瓶が飛び交い、1つ1つの火炎瓶から替え歌の歌詞が書いてある吹き出しが出ているというもので、当然ながら係長に見せると「何、これ?」となります。課長もそばに来て、「キャバレーの宣伝は流行を察知してそれを取り入れるんだよ」などともっともらしいことを言います。やり直しのデザインは、歌っているんじゃなくて、まるで叫んでいるようなマイクを持ったホステスの横顔をイラストで描きました。
企画会議にも出席するようになりました。企画会議の大きなテーマは、どうやってホステスさんを集めるか、どうやってお客さんを呼ぶかでした。「地方の高校へ行ってスカウトしたらどうでしょう?」「東南アジアに行って連れてきたらどうですか?」とか、「抽選でお好きなホステスと熱海一泊旅行っていうのはどうですか?」「それ、売春にならないかな?」とか、冗談みたいなことを真剣に話していました。
これはキャバレーに限らないのですが、女性を売り物にしている風俗店は、若くて可愛い女の子を集めればお客さんは自然と来ます。しかし、いまみたいに若い子が平気で風俗店で働くような時代ではなく、キャバレーのホステスになる人の多くはワケアリの人でした。
ワケアリとは、借金があったり、旦那となんらかの理由で別れて女手ひとつで子供を育てているような人で、住むところがなくても子供がいても働けるように、寮や育児室を設けていました。
上野クインビーの育児室は、僕らが働いている同じフロアの一角にあり、畳敷きの部屋に赤ちゃんがうようよしていました。たまに這って廊下に出て来る赤ちゃんもいて、保母さんが「あらあら」とか言いながら抱き上げて保育室に連れ戻します。そんな光景を見ながら、ホステスさんは全員子持ちなんじゃないかと最初の頃は思っていました。
キャバレーが11時に終わると、子持ちのホステスさんたちは、育児室に子供を引き取りに来ます。寮に住んでいる人たちは、店が用意した迎えのマイクロバスに乗って寮まで帰ります。中には、お客さんに、店が終わったあとデートの約束をしたホステスさんもいたはずですが、子供を連れて帰らないといけないので、待ち合わせ場所に行けるはずがありません。お客さんは待ち合わせ場所で待ちぼうけです。しかし、デートをすっぽかされても、お客さんはまた来て、同じホステスさんを指名していました。お客さんに余裕があった時代です。お客さんに余裕があれば、店にも余裕が生まれます。
ホステスさんは本当に大切にされていました。ホステスさんたちは、5人ぐらいがチームになっていて、新人が入るとチームのみんながフォローしていました。しつこい客が絡んできたりすると、ベテランのホステスさんが軽くいなせてくれます。
われわれ男子従業員は、ホステスさんとの恋愛は御法度です。合い言葉は「商品に手をつけるな」です。でもまあ、陰に隠れて付き合っていた男子従業員はいたと思いますけど。
最近、母子家庭の生活苦の話とか聞くと、社会に余裕がなくなったんだなあとつくづく思います。あの頃だったら、生活に困ったらキャバレーに行けばなんとかなりました。ドレスも貸してくれるし、寮も育児室もあるし、日払いもしてくれるし、身ひとつでその日から働くことができました。キャバレーには、そういう社会貢献的な一面もあったのではないかと思います。
(続く)
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