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【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜  ⑪「みたけはしら」と「なかはしら」その① <98号 平成30年8月>

「はしら」は、ホツマ世界観にとって大切な存在ですが、「みたけはしら(身丈柱・御丈柱)」と「なかはしら(中柱)」について考察します。

 身丈柱は、人が亡くなった時に、その骸(おもむろ)を囲んで殯(もがり)の儀式を執り行い、埋葬した後に、故人の(骸の)身長に合わせて柱を切り出し、その後の霊祭(たままつり)の際に、依り代木(神籬・ひもろぎ*ただし「ひもろぎ」は日本書紀の用語であり、ヲシテ文献では未詳)・ご神体として祭る聖木をいいます。「たけはしら」とも「みはしら」とも表記されます。

 『大御神 神言宣は "あわの数 経て喪を脱ぎて 政聞く 年めぐる日は 喪に一日 その身柱に 祭るべし"』26文 とあり

 没後四十八(あわの数)夜のもがり(葬式)の後は、年に一度、祥月命日に、その柱を霊木として故人の霊祭を親族が執り行う、その祭儀をアマテル大御神が成立させたともとれるくだりがあります。

『喪に入りて シラニワ村の 陵 成す 後に十種の 譲り受け 年めぐる日も 喪に入りて アスカの神と 祭るなり』27文 のくだりは、

 実子が不在で世継ぎのなかったテルヒコ(ニニキネの兄)をアマテルの命で後継したニニキネの孫クニテルは、伯父にあたるテルヒコの霊祭を執り行いました。その霊祭も当然にもアマテルの教えに習うものであり、テルヒコの身丈柱をお祭りしたのでしょう。身丈柱のお祭りが、その後継の「正統性」を明らかにするものと位置づけられていたとも考えられます。

 アマテル大御神以降、歴代の天君は、先代の「四十八夜祭りと年めぐる日の身丈柱祭り」を主宰しており、これが、本朝における、「四十九日」と「命日供養」の原型となりました。そしてその際の聖なる中心となる「みたけはしら」は、今日まで続く、卒塔婆や、位牌の原型になったと考えられます。

 本朝基層文化を特徴づける「先祖崇拝」は、「みたけはしら」をもって大御神によって儀礼化されたのです。

 アマテル大御神の崩御日は文献に明示されていませんが、垂仁天皇の御代、
『二十六年の 九月十六の日 大御神 ヰソスズ郷の サコクシロ 内に渡まし 十七日の夜 御丈柱を 納めしむ』36文
と、伊勢神宮に御霊入れしたその夜は、当然にも大御神の命日を意味すると考えられるでしょう。
(駒形「ほつまつたゑ解読ガイド」参照)

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本朝の世界観のなかで、重要な軸となる「はしら」について考察するシリーズの初回です。「ミタケハシラ」を取り上げました。

身丈柱は、亡くなった人物を祀る時に、その「依り代」として、祭壇の中央にたてまつるものです。「身丈」とあるように故人の身長をその「柱」の高さとするものでした。四十八夜祀りあけ(即ち四十九日)の供養であるとか、「としめくりのひ」(即ち祥月命日)の祭祀に、この「身丈柱」を立てたのでした。

「柱」は、天地(アメツチ)をつなぐ「回路」として縄文の世界観のなかでは、重視されるのですが、そもそも「ひと」が「あめ」と「つち」が結びついて生まれて、天地を結ぶ存在として実存すると考えられていました。

卒塔婆で検索するとたくさんの動画がヒットします。「卒塔婆」は寺院経営の重要な柱なので、その価値を糞坊主達が熱心にアピールしているからです。↑ 上記のものは「終活業者」が案内しているモノで、通説の「卒塔婆」を簡潔に説明しています。しかし、ホツマツタヱを読まれたら、そのルーツが、まったく仏教とは関係のないものであること知り、目からウロコが落ちるでしょう。


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