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彼女とピア経済の話

こんにちは。はじめまして、ふじわらのあつただです。

おさむからの卒業

これまで、ペンネーム「だざいおさむ」として、破滅的な文章を連ねてきた私ですが、彼女との出会いを経て、「ふじわらのあつただ」に進化し、爆速でnoteへカムバックしました。みんな、寂しかった?

改名の意図は、「逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり(彼女と出会ってからの自分を振り返ると、昔の物思いなどなかったようなものだ)」そう思ったからです。

最近わかってきたこと

昔の物思いなどなかったようなものだ。なぜそう思ったのか?

彼女と付き合ってしばらく経ちました。彼女と会話を重ねるうちに、自分はもしかしたら、これまで、両親、親友など、ごく限られた人物にしか自己開示をしていなかったのではないか、ということに気づいたのです。

例外なく、歴代の彼女には心を開いてきませんでした。

そしてそれは同時に、薄い繋がりの友人たちや、歴代のツイートネタ原典彼女が話す内容については、一切どうでもよく、心を開いてその人を受け入れることをしていなかったということを意味します。

心がなかったようなものです。同時に、なんて傲慢だったのでしょうか。そして、これこそまさに、孤独だったのです。

心を開かず、受け入れもせず

例えば、元カノが友人関係で悩んでいるとします。理由を聞きます。しょうもなさすぎてどうでもよいのです。しかしその内容は“世間一般的にはオーソドックスな悩み”とされていて、私からしたらそれは、“その悩みを一般的な悩みとしていったん人は頭をいっぱいにし、なんやかんや言って元気になるアホな一通りのパッケージ”だと思っていたのです。

そして、そのパッケージというぬるま湯に浸かる元カノに辟易していたのです。

悩みに達する過程や、克服するための心情の変化、行動、克服してからの振る舞いなど、一切どうでもよかったのです。

それは、私からしたら「心で悩んでもどうにもならないから、順序立てて論理的に打開策を考えるべきこと」だったからです。

するとどうでしょう?私がサイコパスみたいな反応をされるわけです。いやいや、あんたがアホなんやで?

いや、おれがアホだったのか?

しかし今回彼女と向き合ってきてわかったことがあります。

“世間一般的にはオーソドックスな悩み”かつ“なんやかんや言って元気になるアホな一通りのパッケージ”だと思っていたもの。

実はこれが通常で、僕が異常、ドライすぎたのだと。

世の中の人の悩みレベルは僕が思っているよりずっと低く、かつ簡単で、けれどそのことに真剣になることが当たり前で、それを克服するために人は付きつ離れつするのだ、と。このことをもっと尊重しなければいけませんでした。

決して見下しているわけではありません。あえて言うなら、私が発達しすぎているのです。心がないように見えてしまっていたのです。

いけないいけない。このままでは私が孤立するところでした。

彼女とピア経済の話

私が折に触れて見解を参考にする哲学家が、こう言っていました。

これからはシンプルに「人といることが幸せ」だ、と。その際、「誰といるか」が大事で、幸せは「孤独ではない」ことであり、一緒にいる人の「質」と「量」に幸福度が左右される、と言うのです。

適切な人(彼女)と、適度な厚みで、アナログなコミニュケーションをとる。このことに私はフルコミットしていきたいと考えるに至りました。

これを、その哲学家は「モノにもコトにも価値はなくなった、 “関係”重視の「ピア経済」(※ピア=仲間などの意)とおっしゃっていました。

そう考えた時、今の私はかなり恵まれています。彼女と否応なく向き合う機会を無限に得ていて、かつ、その彼女のあらゆる悩みなどの話を聞く際には、これまでの経験を踏まえて共感することができるのです。彼女の今と、全力で向き合うことができるのです。

まとめ

私は変わりました。いえ、彼女のためなら変わろうと思えたのです。

これからは、目の前にいる彼女の感情、行動に丸ごと共感し、そして、ふたりで過ごしてゆくのです。そして、価値観の違いを理解し、受け入れ、日々変化しながら進化してゆくのです。逃げてはいけない。逃避、それはおさむへの逆戻りを意味します。

これは、私の覚悟であり、成長でもあります。

しかし、これは同時に、緊張の糸がぷっつり切れてしまうという危うさも孕んでいます。あくまで自然に、変化していく必要があります。果たしてあつただには、できるのでしょうか?

日々、成長するあつただに、ご期待ください。

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