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幸福感度が上がり過ぎていないかを警戒した方がいい

なんだろう。何かが足りないと思う時、足りないのは良かった点に注意を向ける能力なんじゃないかと思う。実際の所、大体の所は満たされていて幸せなのだ。しかし人間の本能によって、その当たり前の幸せが見えなくなって、小さな不幸を探し出して、喜んで不幸になる。その不幸の味を楽しんでいる内に本当に大きな不幸がやってきたりすると、今まで蔑ろにしていた幸せに急にしがみついたりする。今ある衣食住が10年後もあるかは分からないし、今ある若さが3年後あるかも分からない。今あるものはとても価値があるものかもしれないのに、まだ足りないと思う。どこかで不幸を経験した人は、その記憶がこびりついて取れないから裕福になっても、脳みその片隅でひっそりと警戒している。また何かのキッカケで昔みたいに戻るのではないかと恐れている。人は比較によって幸せを感じることができる生き物だから、不幸な自分を心のどこかに持っておくのは大事なのかもしれない。最初から1億円くらいの資産を持っている子供がいては、初任給20万円に耐えられないだろう。なのに大金を稼ぐ能力に欠けていたら悲惨である。1億円よりも20万円を稼ぐ方が簡単なのだから、20万円を稼げることを素晴らしいと思えた方が素晴らしいに決まっている。つまりはこれから来る幸せを測る基準値をできるだけ低くしておけば、将来の出来事は大概幸せになるということだ。幸せになる為には不幸を体験することだ。1年で1億円を稼ぐのは多くの人には難しいけれど、20万円ならば可能性は高い。断食をした後の食事が感動的に美味なのと同じ理屈だ。だが、困難なのは自分から不幸に突っ込んでまで幸せになりたいと思う人は少ないということだ。幸せになる為に、みんな幸せに向かって突っ込んでいく。それではダメなのだ。そうすると一生幸せに向かって走り続けなければいけないからだ。さらには人間には慣れるという能力がある為に、現状の幸福にはいつか慣れてしまう。慣れてしまえばさらに大きな幸福を求めなければいけない。いつまで経っても走り続けなければいえないし、要求は膨張の一途を辿る。どこかで一回、振り出しに戻る方が健全ではないだろうか。それじゃあ何も変わらないで終わってくような無力感に襲われるかもしれないが、人間ってのは大して何も変わらないし、終われば何もないのだ。それに高級菓子やハイブランドの服やツルツルした車を持つことが幸せだという人生だって、いずれ無力感に襲われるだろう。膨張した何かはいつか収縮するのだ。そこから目を逸してはいけない。白米と味噌汁と唐揚げに幸せを得られるくらいの幸福感度に調整しておくのが精神的には健康だと思う。高級菓子なんかは三ヶ月にくらい食べられれば十分だろう。

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