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異人・岡部正泰の思い出。〜暴れ脳からもらった年賀状〜



「水着の中に、入ろうよ」

そうは書かれていなかったけれど一通の絵ハガキが、届いた。「速達」と朱で押されてあった。わたしの住所に名前そして。

いますぐ来い!と踊るような青い万年筆の字があった。ああ、受かったんだとわかった。……差出人は岡部正泰。コピーライターという肩書きなしで、名前だけで通じる数少ない重鎮。そのかれの事務所に応募していた。小田急線。これで何かを書け四百字で、そう電話口で言われ。

そのお題で書き送り三日も経っていなかった、唐突な、いますぐ来い!なのだった。合格とは、言ってくれないんだな、でも来いなんだと。

背筋が伸びる気持ちがしたことを、覚えている。……水着の中に入る、代わりに、こうしてわたしはかれの元へ飛び込んだ。



「疲れている人は、いいひとだ」

ともかくも岡部正泰の弟子の一人となったわたしに、かれは突拍子もない毎日を、突きつけてきた。例を挙げると。

キノボリストになれ、と指示されたことがあった。……木登りを、するひと、それを真剣にやるひとだからキノボリスト。それになれ。ただし机の上で。ああ、出来たと思ったら俺に言いにこい!

朝10時にかれは七階の事務所に出てくる。その30分前には、入って、十五畳くらいの洋間の真ん中に置かれた馬鹿でかい白い机を、水拭きし、灰皿を掃除、床を清め浄水器から二リットルの水を汲む。新聞二種を所定の場所に配置する。それらを間違いなく手順通に済ませてから、かれと入れ替わるように階下の詰所にひっこむ。そこでくだんのキノボリをする。するというよりどうするかを、考える。

二名の女性スタッフがおり彼女たちはすでにコピーライターとしてデビューを飾っていた。わたしの仕事はだからキノボリを考えることになった。コピーを書くわけではないから締め切りもない。延々と考えることになるが文字通りキリもない。机上の電話にも出てはダメとされ、といってかれからの内線電話にはワンコールで出ることとされた。トイレに入っていてもそれは厳守だぞ、冗談だよとニヤッとされたが目が笑っていない。午後11時ごろ、かれの仕事が終わるまで続けて答えが出ないまま一緒に電車に乗った。吊り革にぶら下がり週刊誌を読むかれの隣で頭のなかからキノボリの字が、消えない。次の日もまた次の日も同じことが続く。しまいには。

「お前はいいよなあ!」と一喝された。キノボリのその後を報告するたびにだった。そんなこと考えるだけでメシ食わせてもらってるんだ、いい身分じゃあないか、もっともっと考えろ、ようし!(下がって良いの意味)。

アリナミンVの大瓶が、机の上にあり、かれはそれを愛飲していた。「疲れている人は、いいひとだ」というキャッチフレーズが世に出たのはちょうどその頃だった。文句もいわず、投げ出しもせず、ひたすら頭の中で木を登りつづけたわたしに、もしかするとたっぷりの皮肉をかれは、ぶつけていたのかもしれない。他にも今では立派なパワハラにあたる振る舞いは、あって、ついにわたしは三ヶ月を待たずにかれの元を、逃げ出すのだったが。

「ま、いっか、という名の凶器」という、これも大きな広告賞を獲得したキャッチフレーズで、要するにガラスの破片をそのまま燃えるごみに混ぜて出すことの危険性について知らせる、公共広告だったのだが。

わたしは、かれ、だからこそ、短い言葉にまさに凶器のようにその怖さを集約させることができたのではないか、と、思っている。




「暴れ脳へ」という年賀状には、もう返信できない。

それから三十年ほどの月日が過ぎて、すっかり、岡部正康のことを忘れていたわたし、だったが。……かれが闘病の末に亡くなったことを去年の暮れに知った。

思い出くらいは、せめて綺麗なほうが良いだろうと、引越しのたびに梱包しては取っておいた、かれからの年賀状も、いつだったか定かではないが捨ててしまった。どうせ死んでしまうのなら、一枚くらいは取っておけばよかったかも知れない。もったいないことをしたかは、正直わからない。

でも今になって、ありありと、思い出している。それは、……かれ同様に著名なイラストレーターに描いてもらったと推察されるその年賀状の絵に、こう、添えられていたのだ。

「暴れ脳へ。今年もヨロシク!」(よろしく、ではなかった。はっきり覚えている)

なので最後に、ひとことだけ。……岡部センセイ。もう年賀状を出す習慣はさびれつつありますが

暴れ脳であれ、とのあなたの言いつけ。正月が来るたびに、ずっと思い出していきたいと、思います。








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