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カラスが猫が、泣く。誤字じゃない。鬱期のいまは下がった気分を支えるのが日課。仕事。いや業務(どうでも良い)


朝6時半起床。飲尿。排便。これもいつも通りマイナス1度の外。送ってもらった塩パンを食べる。少し発酵? が進んで酸っぱくなったか。ともあれ美味。

昨日から放課後クラブで不織布マスクを装着している。鼻までがんじがらめに覆うやり方。息苦しさは、予想より軽いが眼鏡が曇るのが困る。特に外に校庭に子供たちと出るときがひどい。曇りガラス越しのようになってしまう。鼻のあたりを指で押さえて遠くに群れる彼ら彼女らを見る。馬鹿馬鹿しいこと限りなし。

こうして、人というのは慣らされてゆくのだろうか、嫌な気分がする、、滅多にみないネットのコロナ関連記事を閲覧。

少しだけ眠さがあり、横になる。。ここに以前にも記したが躁鬱の波が明らかに鬱へと切り替わってだいぶ経つ。それでも躁状態の記憶、のようなものが、自分の背中を押してくれる、そういう感じがする。

そして、もう一つ記したいのは、わたしが今まで着用を拒んできた不織布マスクをめぐる周りの反応について。何事もない、ということが、ふしぎ、ということ。。先日あれだけ代表と口論してそれを目撃している職員たちもいたのだ。けれど全く何もなかったかのような雰囲気。そう、空気というやつがとても、気になる。白けているでもなんでもなく、かといって何かをはぐらかせているというものでもない、なんだろう、全て無かったかのような、虚無感ですらない存在感のうすい何ものかが、まさに空気のようにわたしの周りを取り囲んでいる。

集団的記憶喪失という言葉が、浮かぶ。。もしかすると今の時代にはこうした、意図されて仕組まれた、記憶を消去される空気というものを呼吸しているのではないか? 不都合なこと、を、あえて記憶しないという、成分を含んだ、いわば着色された空気を、もしかしてあのマスクを通じてわたしが、吸っているとしたら?

今朝の鈍色の空のように、冷え冷えとしたいやらしさに、襟の前をかき合わせた。でも、、そんな妄想の呼吸をマスクのせいにしたって一体何がはじまるというのかと、少し気を取り直して以下、忘備録。昨日はネットのキャリアというのを変えた。携帯電話代が安くなるという。環境が同じで半額以下ということ。毎度の乾いたため息が出る。要するに知らないことが不都合や不利益につながる時代ってことだ。もちろん、

知り得ないことも、不都合や不利益に、いやむしろこちらの方がどっさりと、繋がっていることを、感じながら、もうすぐ始まる学童指導員の時間へ。


備える。



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