vol.2 飲酒入門

 ドブヶ丘の空気は今日もじっとりと湿っていて、汚濁と排泄物とよくわからないものの匂いが一緒くたに漂っている。閉め切った酒場の中にまでその匂いは入り込んできて、室内に立ち込める血と内蔵の匂いと混ざり合い、さらに混沌とした香りを作り出している。
 今では慣れっこになってしまったこの匂いも、外にいたときは眉をしかめるような匂いだったのだろうか、と後藤はふと考えた。しばらく外のことを思い出そうとして、思い出せなくてやめた。
今更戻ることもないだろう。
 後藤は考えるのをやめて、腰かけているカウンターの下を探ろうと、右腕の切断面から漏れる黒い粘液を伸ばす。質量を持った不定形のそれは、この町に来た時に、神だか悪霊だかよくわからない存在に右腕と引き換えに彼女が得た器官だ。身を守ってくれたこともあれば、厄介ごとを連れてきたこともある。今では憎めない体の一部、といった程度に後藤は認識している。カウンターの裏には少女の死体が血まみれになって転がっている。やけに若いが、どうやらこの店の店主だったらしい。その死体のわきに、封のされたままの酒瓶が転がっていた。ラベルは張られていない。おおかた密造酒だろう。後藤はそれを拾うと、ふたを開けてあおった。
「まずっ」
 一口飲んで顔をしかめ、後藤は思わず吐き出した。
「まずいとはずいぶんだね。とっておきのやつだよ、それは」
 血まみれになって倒れていた店主の死体が立ち上がり、文句を言う。
「いや、これはのめないよ。まずいもの」
「そんなわけないだろ。どれ」
店主は後藤から酒瓶を奪い取ると一口飲み、やはり顔をしかめる。
「まずいねえ、これは」
「でしょ。ところで、君、死ななかったっけ?」
 首を傾げながら、後藤は尋ねた。
「ああ、あんたに殺されたねえ」
「死んだやつは話をしないし、酒も飲まないと思うけど」
「じゃあ、わたしは話してないし、酒も飲んでないんだろうさ」
「幻覚かなにかだってこと?」
「あんたの罪悪感が見せてる幻だよ」
「そんなガラじゃないけどね」
「だろうね」
 店主はくっくと笑う。つられて後藤も笑う。二人の笑い声が静まり返った店内に染み渡る。数十分前まで酒を飲みながらやかましく騒いでいた客たちは、今ではもの言わぬ死体となってそこかしこに転がっている。手足をねじ切られたものもいれば、天井に叩きつけられている者もいる。それらを眺めながら、後藤は笑いながら言う
「じゃあ、こいつらもしゃべり始めるのかな」
「どうかね」
「いやいや、いかに悪人であるかのように振る舞っても、あなたが心の底では後悔しているということ、私はわかっていますよ」
 270度首がねじれている男の死体が不意に立ち上がり、90度程さらに首を回しながら言った。訝しげに眉を上げる店主をよそに、後藤はカウンターから飛び降り、膝をついて男に話しかける。
「ええ、ええ、そうなんです。本当は人を殺したくなんてないのです。けれども、この汚れてしまった手が、この手がひとたび人に害を加えると決めてしまえば、わたしはそれに飲み込まれてしまうのです。どうしても止めることができないのです」
後藤の声は次第に涙交じりに代わっていった。男は一歩ずつ後藤に近づいていく。
「いつかはみんなわかってくれますから。あなたもその衝動をきっと制御できるようになるはずです」
「前は、こんなんじゃなかったのです。本当はもっと、穏やかで落ち着いて、私の本性はそういったもののはずなのに、どうして……どうしてこうなってしまったのでしょう!」
後藤の声の調子は次第に激しいものになっていく。後藤のもとにたどり着いた男はうずくまった後藤を優しく抱きしめる。
「もう、大丈夫ですよ。あなたはもう、強がらなくてもよいのです。そんなことをしなくても、もうあなたを傷つける人なんていないのですから」
「そう、そのとおりだ」
「こんな子が人を殺さないといけないなんて、そっちのほうが間違っているんだ」
「だからこの子は悪くなんかない」
「そうだ、そうだ」
いつの間にか他の男たちも立ち上がっていた。後藤たちを取り囲み口々に叫ぶ。
「君は悪くない」
 手足のもげた太っちょの男が言う。
「だから大丈夫。安心なさい」
 天井に叩きつけられて平たくなっていた禿げ頭の老人が言う。
「おめでとう、生まれてきてくれてありがとう」
 上半身と下半身が別々になった若者が、つなぎ目を合わせながら言う。
「それに…あとは、えーっと」
「なかなか器用なことをするね」
 目玉から後頭部にかけて大きな穴が開いている紳士が言葉に詰まったところで、店主がようやく口を挟んだ。ぱちぱちとおざなりに拍手までしている。
「せっかくの感動的な場面を」
 不満げな顔で後藤は店主に振り返る。死体たちに取りついていた黒の粘液が興味を失ったように離れ、後藤の右腕に回収されていく。死体たちはどさりと崩れ落ちる。
「いやいや、どう見ても三文芝居だから」
「え、酷い。渾身の演技だったのに」
「ひどい演技だったね」
「傷ついた、傷ついちゃったなー」
 よよよと、大げさに涙を拭うそぶりを見せる後藤を、はいはいと適当に受け流しながら、店主は散らばった酒瓶を片付け始める。
「あーあ、だいぶ割れちゃったな」
「無視はやめて無視は」
 店主の背中に向かって太った男の死体が飛んだ。店主はちらりと背中越しにそれを見ると、一歩横にずれてそれをかわす。死体がぶつかった棚から酒瓶が落ちる。店内に漂う匂いに酒の匂いが加わった。
「ちゃんと見てるからね」
「じゃ、これは?」
再び男の死体が跳ね上がり、店主に飛ぶ。
「だからさあ」
店主は再び軽くよけた、ところで後頭部を思い切り殴りつけられた。
「え?」
 振り向くと引きちぎられた右足が浮いている。その足首の部分に黒い粘液がまとわりついている。店主がそこまで視認したところで、再び右足がふり上げられ、振り下ろされた。
 肉と骨がぶつかる音が響く。
「いやあ、よかった。第六感で避けてるとか言われると面倒だからさ」
 後藤は粘液を動かして右足を振り上げ、振り下ろし、振り上げ、振り下ろす。何度も何度も、念入りに。
「あっ!…やめっ……がっ!…」
 最初の何度かはあがっていた悲鳴も、何度か打ち下ろすうちに出なくなった。それでも、さらに後藤は殴打を続ける。
 ぼきり、と音を立てて、使っていた足の膝関節が壊れた。
「こんなもんか」
 後藤は足を投げ捨てると、またカウンターに腰かけた。カウンターを覗きこむと、先ほどまで店主だった肉塊が転がっている。
「さっきも確かに殺したと思ったんだけどな」
 言いながら後藤はカウンターの奥に飛び降りようとして、酒と瓶の破片が転がっているのを見てやめて、座ったまま酒棚を眺めた。
「うーん、わかんねえな……これかなあ」
 しばらく眺めた後に、心を決めたように酒瓶の一つに粘液を伸ばす。透明な液体の入った牛の絵が描かれた瓶だ。
「お酒慣れてないなら、こっちのほうがいいかも」
 店主の少女が一本の酒瓶を抜き取り、後藤に差し出す。船の絵が印刷された茶色の瓶だ。
「え、ありがとう。あれ? 死んだよね」
「死んだねえ。だからあんたの罪悪感の…」
「それはもういいや。あ、もしかして死なないタイプの人?」
「そんなところ、ちょっとした後遺症でね。あんたのそれみたいなもんさ」
 店主は後藤の右腕の先に視線をやる。粘液は酒瓶をつかんだ状態で止まっている。
「ふーん、じゃあ、殺せないか」
「試してみるかい?」
 少しいたずらっぽく尋ね店主に、後藤は興味なさそうに答える。
「今はいいや、それより、それってどうやって飲むのがいいの?」
 つかんでいた酒瓶を元に戻し、粘液をひっこめながら、後藤はカウンターの椅子に座り直した。
「あんまり、お酒飲んだことない感じ? だったら炭酸で割ったりするのがおすすめかなあ」
「じゃあ、それで」
 店主は割れていないグラスを探すと、氷を入れ、酒と炭酸水を加え、そっとかき混ぜた。
「どうぞ」
「いただきます」
 カウンターに置かれたグラスを受け取り、一口舐める。
「あ、おいしい」
「それは良かった」
 思わず後藤の口からこぼれた感想に、店主は答える。その顔は無表情だが、声には少しの誇らしさとうれしさがにじんでいた。



新しく書いたものです。

例によっていろいろは下に。

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