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この夏、本をめぐる旅 〜轢かれた仔猫と雷蔵とひとりの編集者〜②

コロナウイルスの影響でものづくりの現場が大変なことになっている。
特に映画や演劇が大打撃だ。
感染対策を入念にやった上で、リスクを超えるような作品にするための
現場関係者への負担は計り知れない。
逆に考えれば、そこまでリスクを負っても製作しなければならない作品って何だろうと
考えるためのきっかけをコロナがつくってくれたとも言える。
経済優先ではなく、本当に残すべきものは何なのかを考えるための。

清野さんにメッセージを送ったけれど、返信がなく諦めかけていた頃、見過ごしていて申し訳なかったと突然返信があった。
それと同時に2冊の本が宅配便で送られてきた。
一冊は『折にふれて〜きものの四季〜』。
月刊ミセスで連載されていたものを38の物語にまとめたものだけれど、
この本、ちょっと読むのが大変。
雁皮紙、魚々子模様、高麗組、平脱、染韋、玳瑁など工藝の用語だけじゃなく鯔背、鸚哥、鐘馗なんていうルビがないと読めない漢字も頻出してくる。
さらに、緋色や蘇芳色、錆朱色、蒲色、浅蘇芳に纁。
これらはすべて同じ赤系統の日本の伝統色。(どんな色だかわかります?)
きものを取り巻く工藝世界では今でも共通言語として存在している言葉たちが、僕の行く手を阻んでくる。
でも、そんな難しい単語と悪戦苦闘し、想像力をフルに発揮して
それぞれの物語を読み終えてページをめくると、
よくがんばったね、ご褒美だよと言ってくれるかのように、美しい2枚の写真が待っている。
清野さんの見立てたきものや帯を身に纏う女性たちが、
それぞれの物語から飛び出してきたかのような、一瞬を切り取った写真だ。
満島ひかり、安藤サクラ、門脇麦など演じる顔ぶれも豪華。
答え合わせのように早く写真が見たいと逸る気持ちを抑えるのが大変だった。
「すこやかなる想像力と、研ぎ澄まされた五感」。
その所在を文章と写真の鮮やかな構成力と深い解像度で問うてくる一冊だ。

もう一冊は『咲き定まりて〜市川雷蔵を旅する〜』。
37歳で亡くなった俳優市川雷蔵。
その生涯に出演した150本を超える映画のうち28作品について書いたものだ。
正直雷蔵にはあまり興味がなかったから、読み始めるまでに時間がかかってしまった。
端正な顔立ちの昭和の映画スターでしょ、ってぐらいの気持ちだった。
でも、その考え方が変わってきたのは、『炎上』という作品についてのくだりを読んでからだった。
冒頭に「産毛」についてのこだわりが書かれている。
『炎上』は三島由紀夫の『金閣寺』が原作。
国宝金閣に火をつけ全焼させた17歳の青年を当時27歳の雷蔵が演じるために、メイクスタッフとの苦心の末、額の生え際に濃い鉛筆で毛髪を描き足したというのだ。
雷蔵が映画の世界にいたのは、まだ各家庭へのテレビの普及が行き渡っておらず、映画が娯楽の中心だった1954年から、産業として右肩下りがなだらかに続くことになる1968年まで。
プログラムピクチャーと呼ばれる量産型の娯楽映画に出演せざるをえない状況の中で、
これだ!と思った作品には、監督、共演者、スタッフを巻き込んでこだわる雷蔵の熱量がうかがい知れる。

そもそも、清野さんが雷蔵本を書くきっかけは、知人からの勘違いのメールだった。
清野さんが新宿で映画を観ることを伝えたら、その人から「雷蔵ですか?」と返ってきた。
特に雷蔵作品を観る予定もなかったけれど、何かの啓示のように上映館に入っていったという。
そこから雷蔵への傾倒が始まり、毎日5本ずつ雷蔵映画を観る日々が続く。
だから、生粋の雷蔵ファンではない。そして、映画評論家でもない。
何回も作品を見直し、どの作品も大量の資料を集めて書いたのに違いないのだろう。
でも、清野さんが面白いと思った作品はその思い入れが溢れているけれど、
それほどでもないと、淡々と書いている。
その落差が人間味があっておもしろいし、ただの人物評、映画評にはなっていない。
もしかしたら、雷蔵が清野さんに憑依して「この作品はよかったなぁ、これは、しんどかったなぁ」と
書かせているんじゃないか、などと「市川雷蔵と旅をする」という副題から想像してしまう。
マーケティングとか、当たるものをっていう発想ではものづくりをしたくないという俳優と筆者の思いが、時空を超えて交錯しているのかもしれない。

読み終えてしまうのがもったいないと、残り3分の1を過ぎて留まっていた頃に清野さんからまたメッセージが届いた。
「南部麻子ってご存知ですか?」と。
それは今年2月に逝去した大学の同級生の名前だった。


つづく

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