2023.1.20.仕事が閑散期に入ると、仕事のありがたみを実感する

今日は日記です。
日付が翌日に変わってしまったけど、細かいことは気にしない!

ヒマ疲れした結果、お仕事のありがたみを実感したよー というお話です。

※業務時間中に書いたものではありません。


閑散期に入り、業務が……ヒマだ。
どうしよう。この上なく、ヒマだ。

繁忙期はあんなにも「ゆとり」を渇望していたのに、いざ「ゆとり」が手に入ると、まんまと持て余す。

私は事務系の職種で、業務量のサイクルは月単位・週単位、ほぼ一定のリズムで増えたり減ったりする。
営業職やクリエイティブ職のように、どんどん新しい展開を模索するようなポジションでは決してなくなく、「すべき作業」が終わったら、書類整理や掃除をするほかない。

年に数回、「もうこれ以上することはない」と言えるほど手元のタスクが空っぽになる日が訪れる。

…捨てることの書類は捨てた。
もう拭くところも掃くところも吸うところもない。
なにかお手伝いすることはありませんか? ない…ですか…。

「ほどよく忙しく、ほどよくヒマ」は奇跡。
身動きが取れないほど忙しいか、体ごと大気圏に飛んで行ってしまいそうなくらいヒマかの、二つに一つ。

思えば、繁忙期の「疲れた」には清々しさがある。
言うなれば、競技場を走るランナーのように、整備されたトラックを一気に走り抜ける感覚。
途中、転んだりやり直したりしながらも、その痛みはゴールテープを切ってしまえば、直後に訪れる達成感と安堵で帳消しになる。

一方、ゴールテープ自体が存在しない閑散期の「疲れた」には、いつも重苦しい感情が覆いかぶさってくる。
一日の終わり、ドロッとした沼に足をとられるような、ねっとりとした疲れが襲うのだ。

身体もアタマも退屈な状態では、とにかく良いイメージがわかない。
体を動かさずにひたすら座って時間を過ごしていると、「何もしていない自分」への罪悪感が足音を立て始める。
さらに、繁忙期のなりふり構っていられない状況とは違って、人目を気にする余裕が生まれてしまう。
この手の”余裕”は、「今、周りからサボってると思われているのでは?」という焦りの原因になる。
かくして、閑散期は自己評価がどんどん下がっていく…。

「こういうときこそ、いっそ有休消化で休んでしまえばいいんだろうな」と後悔。
だからといって、急に上司に「じゃあ明日休みます」と言えるわけもなく…
今日も私は、パソコンの前でぼんやりと終業時間を待ってしまった。

ああ、忙しいってありがたいことだったんだ。
一人の人間に明確な役割を与えてもらえているって、本来とても幸せなことだ。
「ヒマ疲れ」という贅沢な疲労感に包まれながら、仕事があるって心底ありがたい…!と思い直したのでした。

来週からまた少しだけ忙しくなります。
週末に英気を養い、うんと準備体操をして競技場に戻ろうね。私。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?