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失ったものへの祈りが詩になる、として。

MacBookでnoteを書き始めてみたら、字体が少し違って違和感がすごい。変えようと思えば変えれるみたいだけど、慣れればこれも可愛く思えるかも、と思ってこのまま書き進めていこうと思います。(設定が面倒なだけ)見る人によっては字体も変わってないかも。


書き出さないと自分の中のもののままなんだけど、言葉にして外に出すことで、やっとそれを自分の内側から手放せるって感覚、わかりますか。誰にも言わずに自分の中だけで飲み込もうとしてもずっと忘れられなくて、手放せないことが苦しくなる。「話したら楽になるよ」って、それはきっとそういうこと。わたしの場合は「聞いて聞いて!」ってする相手が昔からあんまりいなくて(マイナスな意味ではなく事実として)、時間をかけて書いて、それを時間をおいて人に読んでもらうことが手放し方になっていました。
だからずっと言っているけど、わたしが一人で書くことをやめる時って、日常的に「聞いて聞いて!」ってできる人が傍にいる時か、人に見せる言葉を選ぶ気力も湧かないくらいの「底」にいる時です。当然、わたしの等身大の「聞いて聞いて!」の相手を常にしてくれる人なんて、滅多に見つかりはしないから、一人でこうしてピーチクパーチク書いてるうちが華です。

ただ、これには三つ問題があって、1つはコスパが悪いこと。「言葉に出来なければ本当の意味で考えているとは言えない」と常々思っているものの、複雑な感情の言語化にエネルギーを使うことは否定できない。特にnoteは、書き殴った直後の文章なんて適当すぎて読めたもんじゃないから、いつからか見返して「なんとか読める文章」にするようになりました。自分のペースでやれる分、時間をかけたくなってしまう。聞く人が聞けば、「本末転倒、時間の無駄じゃん!」と言われると思う。
そして2つ目の問題はその作業を通して、ただの駄文に変な愛着が湧くこと。愛着の先が「この文章を人から承認されたい」になる。こーーれは最悪だ。素人が調子に乗らないでほしいよね、わかる。「読まれる文を書こう」とか「人目を引く言葉/話題を選ぼう」とし出すと、きっとわたしをよく知る人たちはすぐに気づいて、「つまんなくなったね」って言うはず。もしもそうなったら、じゃんじゃん言ってほしい。わたしは私自身より、わたしを見るあなたの目と感情を信じているのでね。
それから3つ目が一番どうしようもなくて困っているんだけど、一度わたしが書いた言葉は、どこで手放しても、または意図せず落としても、それらをわたしが忘れてしまっても、わたしの言葉であるということ。結構な勢いでそこそこの量を書くから、ついひとつひとつの質量が軽くなってしまいがちだけど、忘れないようにしなきゃ。これは責任の話です。



でもね、書くことで助かった代わりに、書かなければよかったのかなと思ったりもする。もう失くなったもののうち、書かなければそこにまだ在ったであろうものが、どれくらいあるのか。


「ずっと」なんてない。という基本スタンスで来ているので、「ずっと」と言う言葉を未来に向けて使うひとをあんまり信用していない。「ずっと一緒だよ」とか。嘘をつくなばーか。もう騙されないぞ。可愛げがないと言われても構わない。だって「これからもずっと友達でいようね!」「ずっと好きだよ」が結果的に嘘になった経験、みんなもあるでしょ?「ずっと」って言葉は、過去と現在でしか使えないんですよ。「小学校からずっとピアノをしてきました」とかね。今まで継続してきた結果、振り返ってみたら「ずっと」になっている。これだけで良い。なんて平和で丸い使い方!安全!

ただ、こんなやっかみを言いつつ、未来に向けて躊躇いなく「ずっと」を使う人を、祈りみたいで眩しいなとも思う。信頼関係のある人に誠実そうな感じで「ずっと一緒にいようね」って言われたら、「この人はこんなに躊躇いなく言えるんだ」と驚くし、やっぱり一瞬は嬉しいんですよね。「うそつくなばーか」と思う自分と、「わー!頼むから本当になってくれーーー!」と思う、お花畑な女の子が片隅にいる。ある意味では「可愛がられたい乙女ちゃん」なんですよわたしは。わはは



「この人がいるならどこだって行ける」と「この人といれるならもうどこへも行かなくていい」が矛盾しなくなったら愛だと、どこかで見た。素晴らしいよね、好きな言葉だった。でも、私はもう誰もいなくたってどこへでも行けるようになりたい。というか既にそうなっていて、そうなれた自分が好きです。


この前言われた、「もう何されても嫌いにはならないから、思った通りに好き勝手してみてよ。むしろそれで好きじゃなくなるか試させてくれ」って言葉の筆圧があまりにも強すぎて、それ以外のことを思い出してみても、全部にこの言葉が裏写りしてる。「大丈夫だから、気にせず思ったことそのまま言ってよ」と言われる時、「自分はあなたの言葉を、あなたが解釈してほしいように受け取ってみせるよ」と言われてるみたいだなと思う。そういう自信と少しの傲慢さを包容力っていうのかもしれないね。

こんな風に、私自身を好きでいてくれる友達にnoteを読んでもらえるのは、恥ずかしいけど嬉しい。ただ、内向きのわたしになっているときに文章を書いているだけで、普段はなーーんにも考えていないからね。考えるより先に行動しちゃうタイプなので、「何言ってるのか全然わからないや」くらいで流してもらっても全然構わない。こちらも「おにぎり食べたいな〜」くらいで今書いています。わ、どうしよう。書いたら昆布のおにぎりへの欲求が止まらなくなってきた。あと半年はおあずけなの普通に嫌だな。帰国まで我慢しなくちゃいけない項目がまた一つ増えました。(ちなみに最近は毎日辛ラーメンを食べてるよ〜、辛いもの食べれないのに一生食べたくなる。)


話が逸れちゃったけど、最後にこれを読んでくれている、私のことを全く知らない人たちに書きたい。

最近改めて、(書いた文章だけで私自身にまで興味を持ってもらえることは、すんごいことだな〜、、、)と思います。有益な情報でも、核心を突いた大衆向けツイートでもなくて、ただのネガティヴ陰鬱女の独り言なのに。最近はコメントやDMでメッセージを貰うことが増えてきて、(見ず知らずの人間にこんなに優しい言葉が書けるのすごいな〜〜)と思っているよ。特に「救われました」みたいな言葉を貰うと「書くことで救われているのは私の方なので、、、。」ってなるし、ちょっと照れちゃうね。私は自分のことしか救えない(なんか気持ち悪い言い方)(全文気持ち悪いし今さらか)ので、私の独り言で「救われた!」と思うなら、その感性がよっっっぽど尊いと気づいてほしいな。よく「私には文章力も何も無くて……」という人がいるけど、受け手の才は強いんだぞーーー!!と声を大にして言いたい。本も詩も歌も絵も、書き手がどんなに素晴らしい物を創作したとしても、受け手がいないと無力なわけで。だから受け取る感性が豊かな人って、創り手を救えるんですよ。
わたしには教養があんまり無いから見当違いなことを言っているかもしれないけど、文学や芸術は、そういう節があると思っている。

とはいえ、どれだけ見てくれる人が増えても、なーーんにも気にせず好きなように書きます。凡人素人の都合の良い散文、今後も電車の待ち時間とかに見てもらえたら嬉しいです。Twitterは呟き続ければフォロワーが増えるものだけど、noteって「フォロワー」とかそういう概念がなかったんだよね。でもせっかくならなんかこのままゆるゆるとして、100人いったらいいな。


今は誰より何より、昆布のおにぎりが恋しいよ〜〜。帰りにスーパーで探してみます


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