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知の大航海に生きた男、トマス・ハリオットを知っていますか?

I would rather doe something  worth nothinge than nothinge at all
――Thomas Harriot

16世紀のイングランド人、トマス・ハリオットを知っていますか? ハリオットの文通相手だったケプラーは(英国人とドイツ人が文通できるのはラテン語のありがたみ!)、知らない人でも知っている超有名人ですが、ハリオットの名前を知る人は、少なくとも日本ではあまりいないのではないでしょうか。

しかし英米では、ハリオットの業績(と人柄)に魅了される人たちがいて、ハリオット学会があり、その事績が調べられているそうです。わたし自身、日本人の例に漏れず、新潮社刊『ケプラー予想』を翻訳するまでは、科学史の本などでもハリオットの名前を見たことがありませんでした。

ハリオットとケプラーの知名度を分けたひとつの要因は、アイザック・ニュートンが『プリンキピア』の中でケプラーの名前に言及したことかもしれません。ニュートンと『プリンキピア』の影響力は絶大ですからね。また、ハリオットは、数学や物理の研究に関してまとまった本を残していません。でもそれは、「研究を秘密にしておいた→科学の発展という点では貢献していない」というのとは全然違います。ハリオットの研究成果は、同時代の学者のあいだではよく知られていたようなのです。ケプラーをはじめとする学者たちには知られていたからこそ、ハリオットは、時間と手間をかけてまで、あえてまとまった本を著そうとは思わなかったのでしょう。とにかく多忙な人だったのです。

ハリオットは1560年頃にイングランドのオックスフォードシャーに生まれました(ちなみにケプラーは1571年生まれです)。平民の息子でしたが、子どもをグラマースクールに行かせられるぐらい余裕のある家だったことは確かです。優秀だった息子は、さらに近所の大学であるオックスフォード大学に進むことができました。オックスフォードシャーに生まれたことは、ハリオットにとって幸いでした。

オックスフォード大学では優秀な成績を収めました。ちょうどそのころ、サー・ウォルター・ローリーが優秀な数学者を求めて、オックスフォード大学の教師に、誰か人材を推薦してくれるよう頼みました。そうして推薦されてきたのがハリオットだったのです。ローリーとハリオットはまさに親友と呼ぶべき関係を結んだようです。ハリオットはローリーの邸宅で、彼の隣りの部屋を与えられ、給料も相当の額だったらしい。またハリオットは、ローリーの財産管理も任せられました(任せるに値する人物であったことは後述)。さらには、ローリーがロンドン塔送りになったときも、ハリオットは自らの身の危険を顧みず、ローリーのために走り回ったそうです。

エリザベス一世(と、ジェイムズ一世)のイギリスは、陰謀渦巻く時代でした。英国の上層部にいたハリオットの生涯もまた、平穏なものではありませんでした。なにしろ親友にしてパトロンだったローリーもロンドン塔送りになるし(最終的には斧による斬首)、もう一人のパトロンだったパーシー卿(Henry Percy. the Ninth Earl of Northumberland)もまた、孫がガイ・フォークス事件の主犯のひとりになっています。(ちなみに、パーシー卿は多忙なローリーのように人使いが荒かったわけではなく、むしろハリオットの研究を、ひもつきでなく支援してやりたいというスタンスだったようです。)ハリオット自身も、なんと、「占星術を使ってジェイムズ一世の運命に影響を及ぼそうとした」廉で異端審問にかけられているのです(さいわい無罪になりましたが)。

ちなみに、ローリーは、エリザベス一世第一の寵臣といわれる長身で美貌の野心家で、新大陸政策に関しては、目先の利益(スペインの財宝を積んだ船をぶんどる)よりも、長期的な植民地開拓の意義を重視していたようです。しかしエリザベス一世自身は、しだいに金銀財宝のほうに心を惹かれていったフシがあります。また、ローリーはエリザベス一世に内緒で女王の侍女と結婚する(そして女王の怒りを買う)という、たいへんにロマンチックなエピソードの持ち主でもありました。ミレーがそんなローリーの少年時代をこれまたロマンティックに描いています。(ローリーと一緒にいるのは兄の一人だそうです。ポーズをとったのはミレーの子どもたち。ジェノヴァの船乗りは、プロのモデルさんが務めたのだそうな。)

海と少年:サー・ウォルター・ローリーの子ども時代
ジョン・エヴェレット・ミレー


さて、以下ではハリオットの探検家・科学者・数学者としての業績をざっと見ていきましょう。

■新世界探検

ハリオットは新大陸の探検を行いましたが、実はそのときはローリーは同行していません。エリザベス一世がそばから離したがらなかったため、行けなかったのです。ハリオットはこのプロジェクトを、ローリーの邸宅で船長たちの教育を教育することからはじめました。地中海沿岸をちょこちょこ移動すればよかったそれまでの航海とは異なり、新大陸に向かうためには、最新の数学・科学に裏付けされた航海術が必要だったからです。ハリオットは、航海術の開発から教育までを担いました。ハリオット自身は海辺に育ったわけではないのですが、ロンドンに出てきてから、航海経験のある者たちに積極的に接触し、当時の航海術の状況や、その問題点を探り出すことからはじめたようです。彼が船長教育のために作った教科書 Arcticon は完全に失われてしまったらしい。残念です。

ハリオットは、新大陸バージニアの住民、植物相、動物相に関し、詳細で慎重な記録を取り(それは、でっちあげのエピソードだらけの面白バナシではなく、きちんとした科学的記載でした)、その一部を書物として出版しています。ありがたいことに、これは今日、ペーパーバックとして廉価で入手することができます。



ハリオットは先住民と友好的な関係を築いたようです。ところが、のちに上司のような立場になった人物が攻撃的・破壊的な先住民政策を採ったため、ハリオットが築いた関係はぶち壊しになってしまいます。残念! ハリオットは、めずらしくローリーに愚痴っぽい手紙を書いてます。なお、ハリオットは先住民の言語に大いに興味をもち、その音韻を正確に記録するために独自の表音記号(表記法)まで開発しています。

この、比較的薄い予備的な報告書を刊行するたけでも、かなり時間を取られてしまったらしく、この経験に懲りたのか、ハリオットは総合報告は出していません。

■数学上の業績

今日、数学が科学技術の基礎であることはあまりにも当たり前になっているため、当時状況を理解するのはなかなか難しいのですが、ハリオットが生きたのは、まさにその方向性が確立されようとする時代でした。かのジョン・ディーは1570年に、ユークリッドの『原論』につけた「序文」のなかで、数学の重要性を力説しているます。このあたりは山本義隆著『磁力と重力の発見2』の「ジョン・ディーと魔術の数学化・技術化」のあたりに詳しい記述があります)。ハリオットはディーと親しく、数学や科学について論じ合っています。


ハリオットの数学上の業績としては、代数計算を容易にするためのさまざまな表記法の開発(発音記号を考えたぐらいですからね)や、方程式論に関する研究があげられます。ちなみに、> や < の記号はハリオットが発明したと言われていますが、少し詳しく言うと、彼自身はふだん、別の記号を使っていたようです。> と < は、唯一の数学的著作であるArtes Analyticae Praxis ad Aequationes Algebraicasを出版するときに、なんと、編集者のアイディアで生まれたらしいです! 

・代数方程式論
 ハリオットは平方根の処理について正しい理解をており、正も負も、実数も虚数も正確に処理していました。また、方程式の根についても、時代に先駆けた仕事をしているようです。
・球面幾何学
 航海術との関係で、ハリオットは球面幾何学もやることになりました。彼らしく、航海術の範囲をこえて探求に踏み込んだようです。
・円錐曲線
 自然現象を説明する際に不可欠の円錐曲線についても研究を行い、ユークリッド幾何学の範囲を超えた研究だったそう。
・球面三角法
 球面三角形の面積を求める式を得たようです。
・暗号
 なにしろセシルやウォルシンガムの時代ですからね、暗号もやった。
・二進法
 発音記号や代数記号など、表記の可能性を深く探った彼らしく、二進法による表記も研究しています。ハリオットは、二進法を使えば計算が容易になると考えていたようです。
・パズル類
 ハリオットは教師としても有能だったようで、パズルなどもいろいろと開発したらしい。パーシー卿も、そんなハリオットとのパズルやゲーム遊びを楽しみにしていたようですよ。魔法陣もそのひとつ。
・確率論
 ハリオットはカードゲーム(トランプ)がものすごく強かったそうです。で、確率論の研究もしたらしい。

彼の数学上の仕事は、死後十年も経ってから出版された上記本のほかは、大量のノート(何の説明もなく、数式が書いてあるだけらしい)が残されており、二十世紀になって、それらを地道に調べるという研究が行われているそうです。

■科学上の業績

・天文学
 望遠鏡を使ってガリレオが発見した木星の衛星を確認しているほか、太陽黒点を発見し、その観測から太陽の自転を導き出しています。なお、太陽黒点の発見というのは、今日のわれわれが考えるような軽い業績ではありません。それは、完璧な天の体系にキズをつけることでもあったのです。英語で a spot in the Sun は「玉にキズ」のこと。
・屈折光学スネルの法則(ハリオットの法則?)
 いわゆるスネルの法則を発見しています。スネルよりも二十年、デカルトより三十六年早い。
・正弦法則
・虹の研究
・ハレー彗星の観測
 ベッセルによる軌道計算に用いられたのはハリオットのデータなのです!
・月面地図の作製
・比重の研究(後述の原子論と関係あり)
・弾道学 軌道は放物線になると結論した
・ケプラー予想(ハリオット予想?)
・原子論
 ハリオットは、とくに光学の現象を説明するために原子論の立場を取りました。文通相手のケプラーを説得しようとしたのですが、ケプラーは、原子論には乗らなかったようです。へぇ~。

わたしにわかる範囲では、ざっとこんなところです。

1621年7月1日、トマス・ハリオットは鼻腔に生じたがんの悪化により亡くなりました。彼は新世界からタバコを持ち帰ったのですが、喫煙は身体に良いと考え、その後ずっとパイプを離さなかったそうです。喫煙によるがんの犠牲者第1号かもしれないと言われています。

いちおう、上記新世界報告本から、たばこに関する記述を写真で紹介してみますね。タバコは現地で(Uppo’woc)と言われていたんですね。

ハリオットが残した遺言は、彼の人柄をしのばせるものでした。彼は、最後まで世話をしてくれた使用人たちにも、できるかぎりのことをしてやったそうです。印象的なのは、ジョン・シェラーという使用人に、5ポンドと40シリングを残したことです。この40シリングは、ハリオット邸を訪れた友人たちが折に触れてシェラーに与えたチップでした。シェラーは、「チップは旦那様が預かっておいてください」とハリオットに頼み、ハリオットはそれをきちんと貯めておいたというのです。ローリーがハリオットに財産管理を任せたのも納得ですね! ハリオットは虚飾に金を使うようなことはなく、人前に出るときにも地味な黒服しか着なかったといいます。

トマス・ハリオットは、知識の大海が目の前に広がる時代にあって、果敢に一生涯を知の航海につぎ込んだ人物でした。冒頭に掲げたハリオットの言葉(「まったく何もしないよりも、何にも値しないことをするほうがいい」)は、憑かれたように研究をし続けた彼の一生をみごとに象徴しているように思えます。


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