福祉なのかサービスなのか、本質は何処に

NPO法人から社会福祉法人ほっと未来SOUZOU舎に移行(設立)で施設整備や「障害児者多機能施設アジール」の開所や新型コロナウィルスの流行など日々に流されていたら、この記事の下書きをしてから2年(現在令和4年8月)たってました💦

ここ5年ぐらいのあいだに放課後等デイサービスの事業所が私たちの地域でも爆発的に増え、私たちの方が過当競争(福祉ではなくサービス業として)に負けてNPOの時に1か所、社福でも1か所を閉所しました。

措置制度や支援費制度の頃のように地域資源として使えるサービスが何もない時代、滋賀県をはじめとした全国の都道府県や自治体で取り組みが進められたレスパイトサービスで夏休みや放課後を過ごしたご家族や当事者の方からすれば今は夢のように児童期の社会資源が増えました。

15年前、レスパイトサービスを提供する中で公共のプールに熱中症寸前になったり、事業所にプールを出してスイカ割りをしたり、肝試しに夜の公園に行ったりしていたのが懐かしい思い出です。当時と言えば40日間ある長い長い休みをどう乗り切ろうかと母親たちと事業者で知恵を出し合い、子どもの好きそうなところ(且つ涼しくお金もそんなにかからないで)、家や学校でやらなさそうなこと、学校ではお友達とで出来そうもないことを提案してみたり、一緒に考える時間がそれぞれの家庭お子さんであったように覚えています。

今では株式会社やフランチャイズ化での放課後等デイサービスがそれぞれのサービスメニューを明確にしているので「うちは○○をしています」「○○を通して成長促します」「ご家庭では体験できない○○を教えます」などカルチャースクールや塾さながらにサービスを前面に押し出していますね。実際、事業者間では利用者の取り合いのような状況も生まれまさに過当競争時代です。そこまでするなら健常児も入れて分け隔てなく習い事やサービスとして提供してもよさそうなのにそうもいかないのでしょうね。不思議ですが、同じようなことを小学校の時は民間の放課後児童クラブでやっているところもあります。中高生になればスポーツや学習や就労の準備といったものは学校や部活や塾などが担ってくるので障害児のアクセスと介助や合理的配慮と実費で行った場合の費用負担の問題も大きいのかもしれません。確かに預かるという機能(親、特に母親の介護負担軽減やレスパイト機能)を持っている側面からすれば一部福祉的側面もありそうに見えますがサービスだけを提供している部分の公的負担をどう考えていくかと子どもの意思決定をどう評価していくかという部分は整理が必要かと思います。子どもの頃は分けない環境設定にお金をかけることや教育機関や放課後児童クラブ、塾などの民間事業者への合理的配慮をどう進めていくかも大切でしょうし、障害のある中高生の友達作りを含めた自立した活動作り(遊び含む)のサポートは昔から課題です。

一方、福祉の機能を前面に出している場合は、ご家族にどのように受け止められているのでしょうか?なるべく少ない支援で過ごせるようになってもらいたい、自活的自立をさせたいと願う親御さんの気持ちもごもっともです。できればより多くの経験やスキルを身に付けて欲しいので学歴にでも療育を前面に出す前代的な訓練型?の放課後デイで、同じような特性や能力の子ども達と過ごさせて、発達が著しい時期にしか習得できない事を身に付けて欲しいこというニーズは多いでしょうし、多分のある子どもを育てるのは初めての親御さんが多いのを考えるとやれば効果が出るといったような情報を信じてしまうのも致し方ないことかもしれませんね。子どもの未来は無限大ですし、子育てに答えはあいはずですが、親の想いは障害のあるなしではなく同じようであるとともに、能力によって住む世界が少しずつずれてくる構造もどことなく似ているような気がして危惧してしまいます。成人期の福祉サービスになれば明らかに給付や受けるサービスで異なってくるので可視化されますが、児童期は家族で子どもの将来を考える時期でもあるので親の希望を除くことはできません。成人までに児童の希望や機能と親の持つ子どもへのイメージや希望を現実的な問題とスライドして合わせていけるかということもあると思います。進路決定は学校の分野にはなりますが、福祉の利用や活用方法については相談機関も活用しながら子どもの意思決定が大人の意思決定に近づいていけるかが児童期に取り組む優先事項だったりしますので親御さんも含めて理解や福祉サービスの相談援助を活用されるのを期待しています。子どもの意思決定の理解が進まないのは相談の質量ともに不足していることや家族への学習の機会の不足や制度的分かりずらさでしょうね。

更に重度の障害のあるお子さんになるとどうしても手厚い預かりを中心とした福祉的放課後デイに集中してしまう現象もみられます。というか本来、居場所や手厚い支援や介助が必要な福祉的ニーズが必要な事業であった放課後等デイサービスが、サービスや活動を中心として参入してきた福祉以外の事業所の供給と多数のニーズに薄く紛れてしまい、一定数の重度の障害のあるお子さんや将来も福祉の必要性を感じるご家族以外に注目されなくなったのが今日なのかもしれません。重度のお子さんを支援する福祉型の事業所は大多数がやっている分かりやすい「サービス」は苦手ですが、困ったことにはとことん付き合い課題解決に制度や関係機関と連携したり協力したりができます。それが福祉職員の強みですからね。

本当は子どもの時大切なのはサービスを利用することではなくて、自分や他人を理解して、自分をうまく伝えていくことってだと思います。それから誰とでも仲良くではなくて、苦手な子がいる時にはどのように距離を取ったり自分の中で処理(昇華)したり、親のような第2者だけでなく、他人である第3者との中で協力してもらえるように伝えたり、理解し合えることが経験ができる時期でもあるでしょうね(もちろん支援者はそれを把握して調整を取る支援を行うのが前提ですが)。ひょうきんな子もいれば、面倒見の良い子もいる、視野の狭い子もいれば、おおらかな子もいて、ぶつかったり折れたり認めたりしながら理解し合う環境の中で子どもたちの持っている「なんでも受け止める力」がぐっと開かれていく時期なんじゃないのかなと思わずにいられません。実際、皆さんも経験されているのと同じように同じ学年ぐらいの子がたくさんいるのは日本では18歳、健常者でも大学生までで、大人になったらより幅の広い年齢層や違う価値観の人たちと過ごす時間の方が長いですし、ほっておいても能力や職域で分かれてしまうのが社会です。なので本当は健常とか障害とか能力とかではない、ごちゃっとして違いを認め合い過ごせる少年時代の方が楽しいし、そうゆう方が生きぐるしくならなんじゃないかと思ってしまうのです。

なので、そんな子どもの時から支援というツールを活用しながら、違いを理解し子どもも親も支援者も一緒に成長していくのが理想でり、お互いの違いを好きになっていくことでサービスはおいておいても「そのままでいいよね。何かあったら協力して何とかしていこうね」という存在や関係性になっていけるんじゃないかとも思ってます。実際にはサービスを通しでしか繋がれなくなってしまいがちですが、本来は福祉の意味ってお互いの幸福のことですから「する・される」が前提で成り立っているものじゃなかったはずなんですよね。

結局のところ障害福祉はサービスの売り買い、提供するだけではでは成り立たないのだと思います。福祉が抜けていてはダメで、お互いが尊重されながら周りにいる人地にも福祉が広がっていくことなんじゃないかと思います。

その人いるから社会が成り立ち、大切にされるから大切にする社会の作用が欠けた時に補完するものが福祉事業ではないでしょうか。

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