一か月スーツケース生活

2/16~3/16までの間、必ずメインのカバンをスーツケースにしなければならない。私は自らにそんな縛りを課した。これは、あえて自分に制限をかけた一人の生活の記録である。

前日譚

きっかけは、「スーツケースを日常的に使っている」という人に出会ったことであった。私にとってスーツケース(キャリーケースなどとも呼ばれる)とは、旅行など、大荷物を運ぶ必要が生じた際に使うものであり、決してリュックサックなどと同じような感覚で使うものではなかった。しかし、彼はそうではなかった。二回目に彼と会った時も、彼はスーツケースを使用していた。その時の私の目には、スーツケースのデメリットしか映っていなかった。どう考えても邪魔だし、階段の上り下りの際に「どっこいしょ」と持ち上げなくてはならないのも面倒である。それでもなお、彼はスーツケースを選択しているのだ。
邪魔で不便なものをあえて用いる。それはいったいどういうことだろうか。
彼への憧れを抱いていたこともあり、私は、彼のようにスーツケースを用いる生活を体験することに決めた。
なぜ、「スーツケースにしなければならない」という縛りにしたのか。それは、スーツケースを不便だと感じる今の私では、そのような縛りがなければ、これまで通りリュックサックを選択してしまいそうだったからである。
かくして、一か月スーツケースを持ち歩く生活が始まった。

経過

一日目。それは幸か不幸か、バイトの日であった。私は当時、カフェのバイトをしていた。早朝シフトであるため、まだ日も昇らないうちに家を出る。街は寝静まり返っており、シンとしていた。しかし、そんな中で響き渡る。ガラガラガラガラ!!!
私の、スーツケースを引く音。それは、すさまじくうるさかった。街はまだ静かなのだから、なおさらそう感じられた。
また、冬であるため、首をすぼめてしまうほど寒い。冷たい風が、頬から体温を奪っていく。手をポケットに入れてしまいたくなる。しかし、スーツケースという存在が、それを許さない。私の手はたちまち感覚がなくなりそうなほど冷えてしまった。そして驚いたのは、スーツケースを引く手に、かなりの振動が伝わることだ。スーツケースってこんな感じだったっけ。そんなことを思いながら、ようやく駅にたどり着く。電車に乗る。
朝なので、車内はガラガラであった。まだスーツケースに慣れていないうちから満員電車に乗らずに済んでよかった、と当時の私は思った。
私は優先スペースの一番角に、自分の位置を定めた。優先スペースとは、車椅子やベビーカーのために設けられたスペースのことである。ドアの前に立っていては乗り降りの妨げになるであろうし、座席のところにいても邪魔になるだろうと考えたからだ。しかし、油断していた私にプチハプニングが起こる。それは、電車が発車した時であった。スーツケースが、動いて、ほかの乗客に当たってしまったのである。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
私がスーツケースの車輪にロックをかけず、さらにきちんと持っていなかったのが悪い。それ以降、私は、電車の中でもスーツケースから目を離さないようになった。
さて、なんやかんやあり、バイト先であるカフェに着いた。しかし、事務所は非常に狭く、スーツケースを置く場所などあるはずがなかった。私はしかたなく、スーツケースを店先に置き、出勤したのであった。

問題なくバイトの業務をこなして退勤した後、私は大学の図書館へ向かった。大学は入試期間中のため閉鎖されており、図書館まではいつもより遠回りしなくてはならなかった。その道は、若干の坂道になっている。普段はなんてことない坂道も、スーツケースを引いているせいで、なんだか遠く感じられた。
大学の図書館は二階に位置しているため、入館するためには仰々しい階段を上らなくてはならなかった。私は、一日目にもかかわらずすっかり慣れたようにスーツケースを抱えて階段を上る。しかし、あることに気がついた。エレベーターが見当たらない。
大学図書館は、すべての学生にひらかれているべきであるなのにも関わらず、なぜエレベーターがないのだろうか?
もしかしたら、探せばあったのかもしれない。むしろ私の大学は、スロープや「だれでもトイレ」など、ユニバーサルデザインにある程度配慮しているはずだから、ないはずはない。しかし、この場合に関して言えば、「探さなければいけない」という時点で、アウトなのではないだろうか。エレベーターがどこにあるかという表示くらい、してくれてもいいのではないか。
そんなわだかまりを感じつつ、私は図書館で時間を過ごしたのであった。
スーツケースを持つようになってから、私は、今まで気づかなかった街のつくりに目を向かせるようになった。
エレベーターやエスカレーター、スロープがない。あるのは階段だけ。そんなところを通らなければならない時、私はスーツケースを持ち上げればいいだけであるが、車椅子の人などはどうなるのだろうか?
また、スーツケースが引っかかるような段差もあった。車椅子やベビーカーなら、これは危ないだろう。

スーツケースは確かに邪魔で不便であるが、そのデメリットに日が経つにつれ慣れることで、メリットも発見することができた。
なんだか肩が軽いッッ!!!
そう、肩こりがかなり改善されたのである。今までは、持ち物のすべてを私の両肩に負担させていた。しかし、スーツケースであれば常に身軽である。一か月スーツケース生活が終わった後にリュックを背負ったとき、その重さに驚いたものだ。
また、スーツケースを抱えて階段を駆け上がるのは大変なので、エスカレーターがある場合はおとなしくエスカレーターに乗る。そのおかげで、駆け込み乗車をすることが物理的にできなくなった。別に一本電車に乗り遅れてもいいじゃないか。そんな心の余裕が生まれた。それに、階段を上り下りするにも、スーツケースを抱えていては、普通に上り下りするよりも時間がかかる。そのため、スーツケースのおかげで、急ぐことがあまりなくなった。スーツケースは遅いことを見越して、早めに家を出るからである。私は、時間にゆとりを持つようになった。

終えてみて

我々はなぜスーツケースを日常使いしないのだろうか。それは、スーツケースが不便だからである。
我々は不便を嫌う。非効率を嫌う。
バイト先の事務所が狭いのは、スペースを節約するためであろう。確かに、事務所を狭くしてその分客席を増やせば、利益は少しは増えるかもしれない。しかし、暗くて狭い事務所は、従業員にとって居心地のいい場所であるとはいえない。休憩と荷物置きでしか使わないのだから、それでいいのだと言えばそれまでなのだが、本当にそれでいいのだろうか。
駆け込み乗車をしようとしてエスカレーターの右側を走るサラリーマンに横を追い抜かされながら、私は「そこまでして得られるものはいったいなんだろうか?」と考えた。駆け込み乗車も、エスカレーターを走ることも、良くないことだとわかっていながら、それでもそうしなければならない事情があるのだろうか。
私たちは時間や場所を有効的に使おうとして、心の余裕をなくし、何か大事なものを見失ってはいないだろうか。
確かに、スーツケースは邪魔で不便だ。しかし、それを受け入れるゆとりを持たなくては、ますます生きづらくなっていってしまいそうだ。効率を追い求めることは悪いことではない。しかし、その行為には終わりがない。「もっと」「よりよく」を追求し続けることは、いつの間にか自分の首を絞めることになってしまうという漠然とした不安が、私にはある。これは大げさなことだろうか。

また、階段や段差がまだまだ多いこの街は、さらに良くしていくことができるだろう。私がここ最近でもっともバリアフリーを感じた場所は、サンリオピューロランドである。室内型テーマパークであるサンリオピューロランドは、地下一階から三階に分かれており、必然的に階段も多くなってしまう。しかし私は、ピューロランド内で車椅子の人も見かけた。ピューロランド内には、きちんとエレベーターが設置されていたのである。それだけではなく、優先パスや多目的トイレも存在していた。
多くの人が利用するテーマパークなので、当然と言えば当然だが、屋内という限られた場所でも、さまざまな人に配慮することを惜しまないところに、私は少し感動してしまったのである。
二足歩行で移動する人が大部分を占めるこの世では、「車椅子の人は邪魔」という考え方をすることもできる。しかし、そうするのではなく、すべての人を受け入れること。少なくともそうする努力をすることが、社会にとって必要なのである。社会は、もっとゆとりをもたなくてはならない。しかし、効率を求める社会にとって、ゆとりは縁遠いものである。
スーツケースが邪魔で、不便なものであることは確かだ。しかし、私たちは、そのようなものについて、立ち止まって考えてみなくてはならない。私たちは今一度、効率というものについて考えなくてはならないのではないだろうか。

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