やさしさと私

人に対して「死ね」と、最後に思ったのはいつだろうか。小学校の頃はよくそんな言葉が使われるのを聞いていたが、いつの間にか耳にしなくなった。私は中高一貫の女子校だったから、周りにそんなことをいう人もいなかった。当然、学校外にも。
だから、私の思考の中には、そのような概念が発生しにくいのかもしれない。
まず、私は他人の生死についてとやかく言えるような立場にはない。もし言える立場にあると思うなら、それは傲慢だ。いかなる理論をもってしても、それを正当化することはできないような気がする。
これは、他人が私に対する場合も同じである。他人も私の生死に口出しする権利はない。
それに、私はそのようなことを言って他人を傷つけるような人にはなりたくない。私はやさしいひとになりたい。

私はベジタリアンをしているが、時々その理由について聞かれることがある。相手とその場の雰囲気で言うことを変えているが、大抵は相手もそんなに興味があるわけではないので、適当なことを言うことも多い。
ただ、今でも覚えているのは、昨年のサークル合宿の時だ。夜、しんみりとした雰囲気だったからかもしれない。

「へー、ベジタリアンなんだ。なんで?」
「うーん…やさしいひとになりたいからかな」
「ふーん」

私は、自分の口からそんな言葉が出てきたことが意外だった。ベジタリアンであることと、やさしいひとであることがどのようにつながるのか、よく分らないところもある。でも、それは本心であるように思えた。

ここで私の大好きなアーティストの大好きな曲を紹介する。このアーティストは好きすぎて、全然布教していない。ここだけの秘密にしてくれよな!

私には今、この曲のラスサビがリフレインしている。

私のこの「やさしいひとになりたい」という欲望は、いったいどこから来るのだろう。当然私にも、「他人なんてどうでもいい、自分さえよければそれでもいい」と思っていた時期があったはずだ。それがどうして変わったのか。
明確なきっかけがあったわけではないかもしれない。ただ、私はいろんなことを通して他人を知ったのだろう。
あるいは、他人に傷つけられることを経験したからかもしれない。傷つけられたくないという思いが、傷つけたくないにつながることはあり得るだろうか。

ただ、相手を傷つけまいとするやさしさが、逆に人を傷つけることもある。矛盾だ。この世はおかしい。私はただやさしくありたいだけなのに、どうしてそうあることすらできないのか。
それでもなお、やさしくあろうとするのは、その方がまだマシだからに過ぎない。
少しでもマシな人間になろうとすること。
でもどこまでいっても、それが「いい」ほうに転じることはなくて。
どうして世界はこうなっているのか?
どうしてもっとうまくできていないのか?

こんなことを考えていてもしょうがなくて、生きていくにはこういうことから思考を逸らさないといけないから、そういうものに溺れる必要があるのかもしれない。こういうことを考えていると、私はいつもパスカルの概念である「気晴らし」を連想する。私はパスカルを読んだことがないから、間違っているかもしれないが。
でもそう考えると、すぐに「世界はどうしてこうなのか?」と考え始める私なんかより、趣味や仕事に打ち込んでいる人の方が真っ当に生きているように思えてくる。
生きたいなら、そうするのが一番賢いのだろう。
人は絶対的にやさしいひとになることなど、不可能だ。だから、本気でやさしいひとになろうとすると、滅亡してしまうかもしれない。だから、趣味や仕事に熱中して、やさしさはほどほどでいいのだ。それが時には誰かを傷つけてしまうかもしれない。でも、それを直視すぎてはいけない。
そういうことなのだろうか。

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