電車で何かを食べる人たち

電車の中で、何かを食べる人が時々いる。私はそれを一瞬、マナー違反だと思う。しかし、何がマナー違反なのだろうか。
検索をかけてみると、「咀嚼音や匂いを不快と感じる人がいて、その人たちに配慮する」という理由で、「電車内での食事はマナー違反」と考えられているようだ。しかし一方で、「匂いが強くなければいい」「音がしないものであれば気にならない」という意見もある。おにぎりぐらいであれば許容されると考える人も一定数見受けられた。つまり、「電車内で何かを食べること」は「電車内で通話すること」ほど、マナー違反という認識が薄いのかもしれない。

私は、電車内で堂々と何かを食べる人に遭遇した時、その人が食べ終わるまで（あるいは食べるのをやめるまで）凝視することにした。「やめろ」と念じるのではない。ただ見つめるのである。その人が食べ物を咀嚼し、嚥下し、胃の中に収めるその様子を、最後までこの目で見届けるのである。

5/3 16:40くらい

男の子ふたりが、電車に乗ってシートに座る。小学校低学年と未就学児くらい。両親も一緒にいる。父親が堅あげポテトのブラックペッパー味を出して渡す。四連くらいになっているファミリーパックだ。1人ひとつ。食べだした。パリパリ。パリパリ。
私と男の子ふたりの目が合う。
私が凝視していることに母親が気づいた。やんわりと食べるのをやめるよう促す。兄の方は残り三分の一で食べるのをやめた。父親から除菌シートをもらい、手を拭く。弟の方は、兄が食べるのをやめてからも食べ続け、結局完食した。

6/4 17:15くらい

社会人のおじさん。隣に座った時から、なんか香ばしい匂いがするなと思っていた。時々、手元の袋に手を突っ込んで、つぶ餅ピーナッツを二粒くらいつかんで口に入れる。バリボリボリ…ボリ…。

咀嚼をするということ

人々はなぜ、人前で咀嚼することに対して嫌悪感を抱かないのであろうか。口の中で、物体をぐちゃぐちゃにしているのを、人の前で行うことを、どうして恥ずかしがらずに行うことができるのだろうか？自慰行為は人前でできないのに？
自分の欲求を満たすためだけの行為を行っているという点では、自慰行為も食事も変わらない。電車の中で寝ている人にも同様のことがいえるが、睡眠という行為そのものは、他者に不快感をもたらすものではない。静かにそこに存在しているというだけなのだから、起きていても寝ていても大差ないのである。
しかし、食事と自慰行為はそうはいかない。
食事をする場ではないところで食事をするということは、自分が欲求を抑えられない、つまり自分は自分を制御できるだけの理性を備えていないということを示す恥ずかしい行為でもあるのである。
「人間が必ずしも理性を備えていなければならないのか？」などといった、人間と理性を結びつける考え方に疑問を持たれるかもしれない。
確かに、人間＝理性というのは、西欧的でポストモダンに位置付けられる現代においてはやや古い考え方であり、人間も動物の一種である以上、時にはこの式が間違いであるという指摘もあり得る。
しかし、理性は人間にとって必要なものである。なぜなら、もし人間が理性をなくし、欲望を全開にすれば、社会は成り立たないからである。
「食べたいときに食べる」「自慰行為したいときに自慰行為をする」「寝たいときに寝る」というのは、自分の欲求に忠実でいいと思うかもしれないが、それでは仕事ができずに生活費を稼ぐこともできない。あなたが道を歩いているときに前の人が急に止まって寝始めたら、きっと驚くだろう。この場合は避ければいいだけかもしれないが、前の車を運転している人が「眠いから」という理由で寝始めたら、事故は免れなさそうだ。例を挙げればキリがないが、ともかく、我々は欲求に従うだけでは社会の一員としてやっていけないのだ。だから欲求を抑えるための理性がある。
それはときにマナーやモラルとも呼ばれる。
ルーズベネディクトが自身の著作『菊と花』において、西洋を「罪」の文化、日本を「恥」の文化と表現したことは非常に有名だが、この場合における「罪」も「恥」も、それが内面からか外面からかという違いはあるが、いずれも自分の行動を統制するメカニズムという意味では、理性と等しいものである。
社会秩序を守るために理性やマナーといったものがあり、それは社会のなかで形成されるものであるため、社会によって若干の違いがある。

現代の日本社会では、電車で何かを食べることがマナー違反ではない。私はその行為を、「理性で自らを制御できないと示す恥ずかしい行為である」と考えたが、社会はそう考えていないから、マナー違反ではないのだろう。また、電車で何かを食べることは、直接的に社会秩序を乱すものでもないから、「恥」にも「罪」にもならない。

それでも私は、電車で何かを食べる人に遭遇したら、その人を凝視し続けるだろう。その人にとって、「電車で何かを食べる」という行為が何を意味するのか、考えるために。