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自己分析的態度

自分を客観視して一個の他人としてみてみたい。これまでこのnoteに書いてそこに現れている自分を一番身近な他人として見てみる。仮にFと書くことにする。Fの外観は、彼の高校の同級生からレーサーの生沢徹に似ていると言われたことがあった。学校の先生風でもないし、新聞記者風でもない。小説家や文芸評論家風ではもちろんないが、どこか普通のおじさんという感じではない。定年後数年経ってテニススクールの仲間からミュージシャンに見えると言われたことがあったが、自由業の人よりかは遥かにおとなしい一般の人だ。タクシーの運ちゃんからNHKの人かと言われたこともある。経営者の団体よりは労働者の団体にいる人の方に何となく同一性がある。起業家とか個人事業主とは真逆に見えるが、一見してサラリーマンには見えない。

Fの風貌から感じるのは繊細さと落ち着きと少しばかりの胡散臭さだ。寺院内では完全に馴染んでいるが、神社内では幾分目立ってしまう。教会内では場違いな感じだ。

もう止めよう。Fをもう語ることはできない。外側を語ることは疲れる。早く内側に引っ込んでしまいたくなる。ここでも自分の内面をできるだけ客観的に書いてみよう。Fの内面は想像上でもぼくの客体だ。Fの内面こそ誰からも見えないぼくだけが知る共通部分だ。Fはぼくでも呆れるほど高慢な部分を持っている。哲学者や小説家や歴史的偉人や文芸評論家を書かれたものを読むことによって、彼らの内面に入り込みまるで我がことのように考えたり、共に生きようと尊大にも試みようとする。それだけ読むという行為は危険でさえある。Fをぼくと同じ生きているこの世界にしっかりとどめ置いておかなければならない。それには、現実的な自己イメージをFに与えなければならない。Fの実際は臆病で世間知らずの、真面目で不器用な、親切ではあるが冷たいところのある、存在感の薄い男である。しかしそれではあまりにも影が薄い。自己イメージにさえならない。一つだけ個性的なところがあった。それは女性にモテるところだった。それは何か作り上げようとするイメージではない、後天的ではなく先天的なものだ。何かを女性にだけは感じさせるのだろう。カッコよさなどではない。それだったらFより上がいっぱいいる。男らしさというよりある種の暗さかも知れない。もし自分が女だったら放っておけないと思わせる所がFにはある気がする。そういえば大学に入ってクラスで女優志願の女性がいて、彼女からいきなり結婚を申し込む手紙をもらったことがあった。

さてFがそんな男だとして彼の人生は何かを生み出したのか。本来の自分を自覚していたらどんな道を歩んでいけたのだろうか。女性にモテたくらいでは出世にはつながらない。それにそれは受動的な態度であって、積極的になるには能動的に何かを起こさなければ、人生に何かが起こることはあり得ない。相手に何かを感じさせるのではなく、相手から感じるものがなければ双方向でなくそもそもぶつかることができない。Fには決定的に応答力が欠如していた。女性にモテたとしても応答できなければ虚しく終わるのは目に見えていたはずだ。Fが今の妻と結婚できたのは、彼女に対して例外的に感じるものがあって応答できたのだ。Fのそれまでの人生で彼女に対してだけ感情が強く反応することがあり、それは自分ではどうしようもないことだった。つまり泣いてしまうということが起こった。しかし、泣くという反応はそれでも、応答になり得るのだろうか。それに彼女はFが泣いていることを知らない。Fにしてもどうして自分が泣いてしまうのか、理由がつかめていない。

そこでぼくがFに代わって理由を解明して見せよう。そう書いて解明しようとするが逆にそもそもそんなことがぼくに出来ることなのかと躊躇する。それこそ自己分析の専門的な理論を必要とするだろう。そこでこれまで読んだ本の中で思い浮かぶのは、フロイトの「精神分析入門」だ。端的に分析とは、科学のように確定された公式の基に原因となる仮説を検証(臨床)することだ。泣くという情動の発露は、どのような公式の基にあるのか。Fの妻となる人への泣く行為は、敗北ではなく支援の「公式」にあると思う。悔しくて泣くとは考えられず、むしろ自ら敗者となって勝者を讃える公式にあると考えられる。妻となる人の、健気な小さき懐かしさの世界に共感できた結果の涙と思える。それは女性の「元型」と思える。

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