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読書三昧ふたたび

今こころの中に湧きあがる欲望、70を越えた年寄りが熱くなって望むのは読書三昧だ。明けても暮れても本に埋もれた生活が定年後どういう訳かできなかった。有り余る時間があってもできなかった。何か残る人生を踏み外しそうで怖かったかもしれない。だからしっかりと睡眠をとってきちんと早起きしていた。まず健康な生活習慣を作った。妻に遠慮していたかもしれない。というか、妻には恩があって、これまでの借りを返さなければとある時気づいてそれを最優先にしてきた。でもそれはぼくには少し負担だったようだ。ずっと小さく押さえつけていた自制心が重荷になってきて今日悲鳴を上げそうになったのかも知れない。、、、きっとそういうことだ。

高校1年の時、世界文学全集を読み耽ったころに戻りたい。あの頃を忠実に思い返してみよう。毎日分厚い本を肌身離さなかった。登下校は鞄の中に入れて、授業中も机の中に入れて触っていた。ヘルマンヘッセとロマンロランとドストエフスキーが友達だった。忙しかった。受験勉強の合間をすべて世界文学全集を読むことに充てていて、こころはいつも小説の主人公と一緒だった。北陸の長い冬を全集を読み終えるとともに越すのは、少年にしてはすでに早く老成した、湧きあがる喜びだった。世界文学ばかりに浸っていたが、例外は白樺派だった。夏目漱石や芥川、太宰ではなかった。大江健三郎や、まして村上春樹ではなかった。白樺派は現国の先生が勧めてくれたものだ。温室育ちの文学だった。しかし今から思えば貴重な経験だったかも知れない。あの頃にしか読めない小説群だった。

ぼくが育った時代は昭和60年代のテレビ、冷蔵庫、クーラーなどの家電消費が市場を牽引していた大衆の時代の先駆けだった。自家用車、エアコン、パソコンなどの時代はまだ先だった。ビートルズやグループサウンズに夢中になった世代だ。白樺派の文学はぼくが育った時代とはかけ離れていた。この時代とのズレの感覚がどこかでぼくの人格に影響しているような気がする。文学的な郷愁というような領域があって、今でも惹きつけるものがある。それが読書三昧へと誘っている気がする。

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