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定年は人生の「革命」

60歳の定年後1年は延長して同じ会社で働いていたが、その後は完全に無職で今日まで来ている。61歳で社会からは用済みの身分で、特に趣味以外にすることはない毎日をだらだらと過ごしている。仕事を望んでいるのであれば無職の身は辛いものとなるが、仕事は自ら作り出す以外にはないと覚悟を決めている。どこから仕事を作り出すか?それに答えを見つけなければならない。69歳の今、この場所から仕事のリソースを発見する「原点」を見つけなければならない。おそらくリタイヤ後の毎日でも無意識にはずっと考えていたと思う。ブログを書き続け、書くことを覚えたのも、無意識下の要請に応えようとしていたからだと思える。「原点」としてぼくがリスペクトしてきた作家や思想家には、戦争があった。戦争は十分なリソースになり得る資格がある。しかしぼくには戦争の実体験はもちろんない。それに類する何万分の一かに、大学時のごく僅かの時期に体験した学生運動があるが、それは資格にはなり得ないことが分かってきた。正直に言わざるを得ないが、ぼくには死を覚悟するような経験はなかった。「仲間の屍を乗り越えて」など比喩としても身に引き受ける覚悟はなかった。

サラリーマンの時に受けた傷は原点にならないだろうか?トラウマは確かに原点の資格はありそうだ。その傷は二年後には基本的に回復していて、ずっと残り続けたわけではない。回復したから無事に定年まで職を全うできたわけで、いわば解決済みのことになる。何も縛られるものがない現在自体を原点とするしかない、ように思える。サルトルのように自由が課せられているという、存在自体を傷のように原点として設定することもできるかもしれない。しかしそれは観念を実在のように受け止められるセンスというか、自己欺瞞を見ない生き方になる。どこかで嘘と気づいていたら熱を持った生き方は不可能だろう。結論が出ないままの「何となく」で終わりそうだが、「何となく」浮かんでくるのは、文学という領域のように思える。それはサラリーマンの時の仕事に次いで多くの時間を費やしてきたことだからだ。ぼくの文学的出発はどこにあるか考えよう。

定年退職後できることは色々あると思う。せっかく会社勤めを卒業したのなら、働くことから離れて与えられた時間を働くこと以外に使えたらいいと思う。労働から離れてサラリーマンで会社組織に縛られて出来なかったことに、残りの人生をかけるべきではないだろうか?人間の本質は自由に生きることにある。他人の自由を奪うようなことでなければ、好きなことに時間を使っていいはずである。ぼくは38年間をサラリーマンとして過ごした。定年退職して何年もサラリーマンの考えや習慣から自由になることは実際難しかった。自分を自由にするために自分を鍛える必要さえあったと思う。要は定年後にしか出来ないことをやるために、定年後の時間は与えられたと確信し、その境遇を感謝し生かすことを考えるべきである。それは何か、定年という事態を徹底的に考え深掘りすることである。ぼくのような凡人にもフェアに与えられる定年という事態は、ある人がYoutubeで言っていたように、人生の「革命」である。職を解かれ、職にまつわるあらゆる関係性から自由になるのだから、革命に値するのだ。だから、その考えを推し進めるとしたら、定年後サラリーマンだった人は「革命家」にならなければならないのだ。ドストエフスキーとヘーゲル=マルクスによって切り開かれた、存在の革命家にならなければならない。それは文学者でもあった埴谷雄高の思想から学ぶことができる。

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