0509

 今日の感染者は〇〇人、死亡者は〇〇人でした。と、毎日のニュースが言う。これほど見ず知らずの誰かの死に、触れ続ける時期もないのではないか。書いているそばから胸が握られる。
 まるで日記のように報告される感染者と死亡者の数にどこか慣れているし、感じないことを心がけている。お風呂あがり、両腹に手の平をくっつけてテレビを覗き、「そうかー」と呟くだけである。東日本大震災の時も、熊本地震の時も、各地で台風・豪雨の甚大な被害がもたらされた時も、死者は連日増え続ける。「今日新たに、〇〇人の死亡が確認されました」。それでも、いつか報道は終わる。そうでなくてはこちらが生きていけない。風化させていいということではない。もう二ヶ月以上、今日は〇〇人、今日は〇〇人の呪文が繰り返されている。こんなに長いのは初めてだ。
 今日のニュースは断絶を伝えていた。「自粛警察」という言葉が流行っている。新型コロナウイルスの緊急事態下でも営業を続ける店舗に、警告の張り紙をするという。店舗側は指針に従って充分気をつけていると訴える。気持ちはわからないでもない。私もひと月前のよく晴れた日に、マスクをせずに訪ねてきた近所のお喋りなご婦人にマスクを渡した。思えばあの時から、「コロナ」が頭を巣食い始めていた。
 私は演劇をやっている。俳優として小劇場の舞台に立ち、または演出をする者だ。小劇場という怪しげな、地下の小スペースに得体の知れない演劇人がうじゃうじゃしている、ように見える世界に、確かに集う人々がいて、生きている人々がいる。入ればなんてことはない、誰かが芝居をやって誰かが見る。映画館とそんなに変わらない世界だ。(語弊があるのを承知で。)
 一見わかりにくい、瑣末な、小劇場、赤ちょうちんの居酒屋、ミニシアター、近所の古本屋、そこに生きている無数の人たち。そういうものが一気に、資本力というただ三文字でもって振り落とされるかもしれない恐怖。それは間引きではない。枝葉末節になったつもりもないが、枝葉末節が枯れればやがて幹も折れる。無駄は無駄ではないと、古くから多くの先達が語っている。
 常々、演劇でも文章でも、作品を時代に当てていきたいと思っている。こんな時に書くのだから、読んだ人がふっと和らぐような、軽くなるようなものを書いた方がいいかもしれないと考えていた。それができなかった。新型コロナウイルスの震えが、この先何年も続くこと、社会や人間を変えてしまうだろうことをわかっている。その覚悟が、毎日を緩やかに減退させ、日常を小さくさせ、まだ知らないものへの好奇心、よくわからない人への想像力を失わせている。この数ヶ月、なるべく報道や社会に開いてきた。考えてきたし、ツイッターの声、人々の動きに耳をそばだててきた。今日は目を瞑りたくなってしまった。誰か関係ない他人の声が聞きたい。電車に乗って音楽の邪魔をする、誰か関係ない他人の声が聞きたい。

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