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徳川家康さま☘️をたどる#18☘️ 三河一向一揆勃発

初筆 2023年 1月 19日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、
今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#18
⬇️
https://stand.fm/episodes/63cb50e75ba8edc8bda83032

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。

2 前回からのつなぎ

前回は、
元康さまが三河を平定するにあたり、

  • 今川の一武将であることは辞め

  • 城持ちの武将として独立した上で

  • 織田方と同盟を結ぶ

としたことと、なぜ、何を思い、
そうしたのか、どんな様子だったか
を話しました。

また元康さまが三河に点在する
今川方に与する支城攻めを始めたことで
今川氏真さまは元康さまが敵になったことを
認識するとともに、
三河豪族のいくつかが元康さまに
味方するキッカケにもなったことを
語りました。
(前回の記事はこちら)
⬇️


3 このころの元康さまトピックス2点

今回は、三河一向一揆を語るんですが、
その前に、元康さまこの時期のトピックス2点❗️

  • 妻子(築山殿と信康さま)を取り戻したっ❗️

  • 実名を元康から家康へっ❗️

ます、奥さんお子さまはどうやって
駿府から岡崎へ取り戻したのか❗️
元康さまが今川方と手を切ったあとも
今川方についていた鵜殿長照さまとの戦に勝利、
元康さま勢はその子2人を人質としました。
鵜殿長照さまは今川氏真さまとは
いとこ同士、ご親族。
この2人と、人質交換で
妻子の築山殿・信康さまを
岡崎に迎えたということです。
三河物語に掲載あるらしいのですが、
今とこその記述をこの時代の記述からは
見つけてません。
他のページにあるのかなぁ💦

次に、元康さまから家康さまへの改名。
これは今川方から独立したことを
元康さま、ご自身の名前でも表そうとお考えになり
今川義元さまから偏諱を賜った(へんきをたまわった)
「元」の字を避けて「家康」としました。
後年の史料「徳川幕府家譜」によると
永禄6年1563年7月6日に改名したと
あるようですが、一次史料の
「三河物語」では元康さまが
桶狭間後、岡崎城に入場なさった章で
「元康の名を変えられて家康となった」
と書いてあるだけです。

三河物語、時代考証とかすごいテキトーなときあり😂
他の一次史料では、実際に現存する
家康さまが送った各種書状に「松平蔵人家康」
などの署名が見られるとのこと。

以後、家康さまとお呼びいたします❗️🥰

4 三河一向一揆直前の岡崎周囲状況と原因


織田信長さまと同盟しつつ独立を果たした元康さま、
しかし独立とは言ってもまだまだ三河平定はならず
今川方に味方する三河豪族は三河あちこちにいました。

前回にお話した東条・西尾・牛久保攻めのあと
三河全体が家康さま勢力vs今川方勢力に
2分割されて「三州忩劇(さんしゅうそうげき)」
と呼ばれる内覧状態になっていきます。

今川氏真さんは室町幕府13代目将軍の
足利義輝さんに調停を依頼し
義輝さん永禄5年1562年1月20日付で
今川・松平の両氏に停戦命令を出すも
室町幕府は既に力を失っている状態で
まったく停戦などしない。
そもそも家康さま現状の目的は
三河の総領主として、三河を
松平家の所領として統一すること
だから停戦などしない。

その後、三河内乱は戦線が膠着化し
その長期化した戦乱は
松平家家臣や地域の人々
農民・町人など、に経済的な
負担を強いることになりました。

しかし家康さまは
三河平定=vs今川勢力との戦を
継続する方向性を取りました。
家康さまが今川家人質時代の
三河家臣団の苦労を思い
家康さまは三河を完全に
松平に取り戻すんだと考えて
行動するのは総領主としては
フツーに考えることですが、
戦争が長期化すると
立ち上がった家康さまを讃えていた
家臣団や庶民も徐々に疲弊していき
家康さまから心離れていくことも
あります。

こーいうの会社とかバンドとかでも
よーありますよね、
社員間の「温度差」
バンドメンバーの「方向性の不一致」
ゆーやつ。
バンドや会社が大きく発展するときに
乗り越えなくてはいけないプロセス。
まさにこのときの松平家がそういう
状態でした。


5 三河一向一揆ついに勃発

三河内乱の戦線、膠着化・長期化で
家康さま家臣団や地域の方々が

  • ジリ貧になっていく

  • 資金・食糧・兵役の調達も厳しくなってる

  • 気持ちも疲弊してきてる

そのような背景があるときに
敵対する今川勢力とは別に
三河一向一揆が勃発しました❗️💦

一向一揆の詳細は来週話しますが
農民が重税に耐えかねて
領主に対して起こす土一揆とは違い
浄土真宗本願寺派のお寺さんが
租税フリーと治外法権を求めて、時として
地域の人々を巻き込み
領主に対して起こす一揆です。

具体的な勃発、実際の最初の衝突は
三河物語によると
永禄5年・1562年に本證寺に侵入した
荒くれ者を西尾城主、酒井正親が
捕えた、守護使不入の権利侵害から
三河一向一揆は始まった、
あるいは
松平家が佐々木上宮寺から兵糧を強制的に
徴収したのが始まり、ともされています。
たぶん、どちらが最初の衝突というのではなく
同時発生したものなのでしょう。そして
松平家家臣のいずれの措置も
家康さまの判断を仰いでの
家臣の措置でしょうから、言うたら、
家康さまやっぱぼわーとしてて
それらやったらどーなるまでは
考えてなかったんやろねー🤣💦💦

三河一向一揆で、敵対するお寺さんは

  • 土呂本宗寺を頂点として

  • 野寺本證寺

  • 佐々木上宮寺

  • 針崎勝髪寺 

これらの寺々にはボンさんだけやなしに
松平家臣団も一向一揆衆に加わり
家康さまに忠義を働く家臣と
一向一揆側についてしまった家臣
に松平家臣団別れてしまいました。
そのリストが三河物語には克明に記されています。

さらには三河一向一揆勢とは別に
今川方につき戦闘膠着状態の敵が

  • 上野の酒井忠尚さま

  • 東条の吉良義昭さま

  • 六栗の夏目広次さま

家康さま領国保全どころか、内外に敵を作り
三河一向一揆勢・今川方につく勢力の
両方と戦うハメになりましたー。
フツーに考えたら大ピンチやねんけど
たぶんこーなること予想してなかったんやろうねえ
💦💦💦

6 次回

三河一向一揆が始まってしまいました。
一向一揆とらいうと両者に楯突く宗教勢力、
くらいは皆さまなんとなくお分かりかと思いますが
なんで浄土真宗本願寺派だけが
日本のほうぼうで一揆を起こし
けっこうな力を持つことになったのか
その辺を、家康さまの状況なとも
絡めつつキチンと調査し報告しようかと
思います❗️

チラ聞きさせておくと
蓮如聖人はエロ坊主❗️
おっ楽しみにーーー



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