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徳川家康さま☘️をたどる#21#22増刊号🙇☘️ 三河平定❗️徳川三河守家康さま爆誕❗️🎉🎉🎉

初筆 2023年 2月 9日 / 加筆修正 2023年 2月 22日
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#21
⬇️
https://stand.fm/episodes/63e81b585cd9d902f8a2a326

スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#22
⬇️
https://stand.fm/episodes/63e81b585cd9d902f8a2a326


1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。


参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著


2 前回からのつなぎ


前回は以下を話しました❗️

一向一揆、親鸞を開祖とする浄土真宗の一派
浄土真宗本願寺派が一揆の指導をしたが
勢力があったのは、第8代法主の蓮如はんが
エロ坊主やったから❗️❗️🤣🤣

一向宗は寺内町を形成し
本来その土地の領主がすべきこと
安全性と権利や義務を保証
西三河は一向宗の「モデルエリア」だった。

三河一向一揆の戦闘と和議概略と
離脱した家臣・一向宗寺社の処置・没落した豪族の
まとめ

三河一向一揆平定後、地域の安全と契約の保証は
松平家管理の元に行われるように、つまり、
松平家康さまはようやく西三河の惣国領主となった。
また、
家康さまは三河一向一揆平定を通して
庶民を大切にしていくことが肝要ということを
学んだ。

⬇️前回記事はこちら


3 東三河平定時の政情、他


西三河を平定した家康さまでしたが、
それは例えば東京で言うたら武蔵野市を平定した程度
大阪で言うたら豊中市を平定した程度、
(選んだ市に忖度はありません)
三河の惣国領主となり、対等に同盟を結んでいる
織田信長さまと並ぶためには、今川方につく
領主の多い東三河を配下に収めなくてはいけません。

家康さまにとってはラッキーなことに
今川氏真さま領である遠江・駿河も
義元さまロスのせいか、あるいは
武田信玄さまの裏での動き・凋落活動もあり、
徐々に領内内乱状態になってきていて
今川勢が東三河の属国をサポートする余裕が
ない状態でした。
氏真さま一度は東三河、牛久保まで遠征ないましたが
家康さま軍勢に押し切られた、それを「一宮の撤退」
と三河では言っている、と「三河物語」にあり

一方の家康さまは西三河内乱および
三河一向一揆を見事。。。いや。。
ほうほうの体で、いや、優秀で情に深い
家臣団のおかげで、収めたということもあり、
「松平家康、若いがやりおるわい」という
風評が東三河に流れていったのかと思います。

また一向一揆平定後、租税を蓄えていた
一向宗の一気に加担した寺々は破却され
蓄えやその後の租税も松平家管理となり
戦のための資金や雑役リソースも以前とくらべて
かなりマシになってたのでは、と思われます。

常に全体的にラッキーな家康さま😂
家康さまの20代前半までしかたどってませんが

  • 運を持っている

  • 周囲が心配しなくてはいけない情けないくらいの大将

  • 周囲にはそれに応える情の深い家臣に恵まれている

  • しかし経験したことは学習するようだ

というようなことが見えてきました😂

その「若いがやりおる」という家康さま評判のおかげで
東三河にはぽつぽつ、戦わずとも
家康さまに従属する領主も現れてきました。
あるいは戦闘があったとしても、
敵味方双方とも比較的ダメージの少ない段階で
和議を結ぶこともできたんだろうと推測できます。

このころ家康さまに内通してきた東三河の領主は

  • 牛久保の牧野新次郎貞成

  • 設楽の牧野貞通

  • 西郷正勝

  • 野田の菅沼新八郎

  • 下条の白井麦右衛門

  • 戸田丹波守重定

戦闘後、戦死なさった東三河の領主は

  • 板倉弾正重定

  • 板倉主水


4 三河平定

これまで話してきておわかりかと思いますが
東三河平定=三河平定ということになります。
ここで念のため整理しておくとこのころの
「尾張(織田領)+三河(家康さまがこのたび平定)
 =今の愛知県」です。
名古屋市あらかたを含めてそれより西北が尾張
名古屋市ほんの少し含めて豊橋市までが三河
です。ざっくりですが😂

家康さまは今川方に与する勢力の大きい
吉田城(現在の豊橋市)に攻めこみ
鉄砲隊が出たり槍合わせもすさまじいような
戦闘となり、本田平八郎忠勝さま大活躍と
三河物語にあり。
結果、吉田城は陥落し家康さま
今川方の諸将を追い払います。
また渥美半島の田原城も陥ちました。

そして吉田城が陥ちたことで、東三河でまだ
家康さまに恭順したなかった長篠・段峰・作手の
領主たちも家康さま参加となりました。
「東三河へ・い・て・い❗️
 やりおるわい、家康さま」❗️😂

5 指揮系統の整理

さて東三河平定していく過程で
先んじて家康さまに従属してきた東三河の領主たち
の多くには引き続きその土地の経営をまかせることを
家康さま安堵しました(安堵書多数あり)
多少国替などはあったのかも。

また、領主不在となった領地には
家康さまの親戚筋の松平一族および
従来の松平家臣団を置いていきました。

そんな中でも目立つのが戦闘で落とした、
吉田城(豊橋市)と田原城(渥美半島)
吉田城には重臣の酒井忠次さま
田原城には本田広孝さまを置かれました。
その目的はその2城はながらくは
今川家に支配されていたので
ムリして松平家の統治方法にせず、
以前の今川家のやり方で統治できる
政治手腕のある人員配置だろうと考えられます。

そのときの、酒井忠次さまが東三河の要所の
行政執行を行うことになったのも関連するかと
思いますが

  • 東三河全体管理 → 酒井忠次さま

  • 西三河全体管理 → 石川家成さま(のちに石川数正さま)

という形となりました。
全体管理というのは、従属領主および松平庶家の
政治経済的統制ということなのですが、
それがそのまま松平家の軍事指揮系統にまで
発展していきました。

家康さまが西三河さえ抑えていなかったころは
軍事指揮のへったくれのは、できる人がやる、
みたく、その場で考える、というような形
だったと想像できますが、
全三河一国の領主、すなわち、戦国大名レベルの
経済圏をもってしまったため、
家康さま1人ではアタマも手も首も
回らなくなってたのでしょうね。
そんなとき賢い重臣がいる家康さまは
やっぱりラッキーボーイ❗️😂

またこのころに家康さま近臣若手で、
のちの徳川四天王となる
・本多平八郎忠勝さま
・榊原小平太康政さま
たちが自然と旗本衆(家康さま直属軍)と
なっていきました。

6 徳川への改姓と朝廷による三河守任官

吉田城(豊橋市)田原城(渥美半島)を
陥としたのをもって三河平定、あるいは
牛久保の牧野新次郎貞成さまが従属したのをもって
三河平定とも、資料によって様々ですが
いずれにせよ、それは
1565年永禄8年3月〜1566年・永禄9年の5月ころ、
いまだ家康さまは朝廷からは叙任されてなくて
お名前は「松平 蔵人 家康」、官職名を省けば
「松平 次郎三郎 家康」でした。
この蔵人という官職名は習慣的に名乗っていただけです。

そしてついに❗️
1566年・永禄9年の12月29日、あ、曜日はわかりません😂
また資料によっては1567年・永禄10年正月3日とも。
改姓を果たしてから、家康さまのお名前は
「徳川従五位下三河守家康」さま、となりました。
その経緯を話していきます。

松平家康さま、三河平定をなさった、つまり
三河一国の惣国領主とおなりになりました。
それはつまり戦国大名クラスの政治・経済・軍事力をもつ
一国の主人とおなりになったのです。

そういうときに周囲を納得させる権威付は
日本の場合、朝廷にその立場を任官してもらうことですね。
「(石川)和正くーん、(酒井)忠次くーん、
 なんか足りないんだよねー、例えば
 信玄くんや北条くんに文出すときとか、
 蔵人ではなんともー」
と言ったか言わないかは知らないけど
家康さまみたくフツーの人だと言ってるかと思います😂
また大樹寺の登譽上人に相談したとも。

朝廷へのこういった申請は武家ならば
武家の棟梁である足利将軍経由で上奏するのが習慣でしたが
1565年・永禄8年5月19日に13代将軍足利義輝さま
永禄の政変で三好義継さま・松永久通さまに殺害されていて
なんとこのとき、足利将軍不在でした。
そんな事情から上奏は、近衛前久さま・高倉永相さま
経由でした。

そこでモンダイ発生❗️

  • 松平姓では朝廷の武家と認められない

  • 徳川姓にしたとして源氏であるという先例がない

まず松平姓は朝廷から見ても「ダレそれ❓」みたいな
状況だったんだと思います。
で、でっち上げ的に、松平一族はもともとは
近衛家の家来筋の「得川」一族に連なる、ということにして
子細ありて(事情があって)漢字を「徳」に変更してる
ということにして(そこかなりテキトー😂)
名前を「徳川家康」として任官申請したようです。
早い話、上奏の近衛前久さまあたりが
融通を効かせてくれたようです。
高くついたんちゃうん❓😂

また家康さまはじいさまの清康さまからずっと
正式書類には源家康と記述していて、
ゆくゆくは源氏の系統を名乗ろうと思っていたようですが
徳川姓が、源氏であるというのは先例がない、と
正親町天皇がお渋りになられて、家康さま任官は
いったん滞りました。

そのとき神道家の吉田兼右さま(かねみぎ・兼見さんのお父様)が
動いてくれたようで、先例を記した日記を見た吉田兼右さまが
ハナカミ😂に写し、その内容は
徳川は源氏にて二流あり、惣領の筋が藤原氏になった
先例がある、として、その朱引き、書き写しを
近衛前久さまにお渡しになったとのこと。
で、正親町天皇は「徳川=藤氏」にはOK出したご様子です。
ここで疑問なんですが、のちに征夷大将軍におなりになる
家康さま、藤原氏でよいのか❓
さらにそのモンダイは江戸幕府3代将軍家光さままで
引っ張られるとのこと。しかし、その辺はまた
そのモンダイが浮上したときに調べていきます🙇

何はともあれここに、朝廷におけるオフィシャル名
・藤原従五位下三河守家康さま
・得川従五位下三河守家康さま(朝廷では得川と認識)
爆誕したのでした。

人間、骨を折ってくださった方にはお礼が必要です。
家康さま従五位下の叙爵と三河守の口宣にかかった
経費リストを上げておきます。

  • 近衛前久さまに毎年、銭300貫文

  • 近衛前久さまに毎年、馬一頭

  • 吉田兼右さまに馬進上(頭数不明)

の予定だったのですが、実際近衛前久さまに
銭20貫文と2回馬の進上があっただけという
記録があるようです。
踏み倒しよったな、家康さまっ❗️😂

7 次回

家康さまが朝廷から任官されたころ
京都に向かって爆進していた織田信長さま
その辺りのお話を家康さまサイドからみていくとともに
弱体化しつつあるとはいえ、いまだ東にあった
今川家、そしてその隣国の武田信玄さま。
戦国大名となった家康さま、の周辺
懸案事項ありすぎやん❓❗️
しっかりしいやー家康さまっ😂


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