見出し画像

婆沙羅って、道誉

「コノゴロ都ニハヤルモノ、夜討、強盗、偽セ綸旨(りんじ)、召人(めしうど)、早馬、カラ騒動(さわぎ)、生首、還俗、自由(まま)出家、俄カ大名、迷イ者、本領離ルル訴訟人、文書入レタル細葛(ほそつづら)、安堵、恩賞、虚(そら)イクサ、追従、讒人(ざんにん)、禅律僧、下剋上スル成リ出者、器用ノ堪否、沙汰モナク、モルル人ナキ決断所…」

 稀代の帝王後醍醐によって、所謂「建武の親政」が開始されたが、期待を裏切り続けた結果、政治や社会の混乱を風刺する有名な「二条河原落書」に群衆が集まった。

 しかしながら、混乱の原因を一手に押し付けるのは酷な話であり、元寇の役に対する恩賞にも事欠き、執権北条氏一門に栄誉と権力が集中しつつ、宮廷化と貴族化への不満が高まって、鎌倉幕府は瓦解した。

 幕府だけでなく、朝廷も持明院党、大覚寺党だけでなく、其々の思惑によって皇位継承権を巡る錯綜が続き、世人がこれを競馬と呼んだことが「花園天皇宸記」にある。

 「着ツケヌ冠(かむり)、上ノ衣、持チモナラワヌ笏(しゃく)持チテ、内裏(だいり)交ジリハメズラシヤ、マナ板烏帽子(えぼし)ユガメツツ、気色メキタル京侍、タソガレドキニナリヌレバ、浮カレテ歩ク色ゴノミ、イクソコバクヤ数知レズ、内裏拝ミト名ヅケタル、人ノ妻ドモノ浮カレ女ハ、ヨソノ見ル目モ心地悪シ…」

 日の出までに仕上げた高札にしては、長過ぎる横板に貼り付けられた落書の下には、相変わらず黒山の人が、先の戦争で成り上がった武士たちの身の丈に合わぬ恰好や男女ともに性の乱倫に溺れる世相を嘲笑していた。

 「船作リノ大ガタナ、太刀ヨリ優ニコシラエテ、前下ガリニゾ差シ誇ラス、婆沙羅(ばさら)扇ノ五ツ骨…」

 婆沙羅の語源は、十二神将に属して、十二支の丑を司るヴァジュローマハーヤクシャセーナパティ直訳すると大夜叉将軍となる伐折羅であり、金剛(ダイヤモンド)も表す仏教用語であるが、転じて絢爛豪華な服装や風俗を示し、更に豪奢な生活や傍若無人な行動を表すようになった。

 妻妾は数十人に及び、和歌、雅楽、彫刻の名手であり、数千に及ぶ訴状に御決裁を下す帝王後醍醐こそ、婆沙羅の化身であった。

 佐々木道誉もまた、連歌、闘茶、香道及び立花などの趣味は一流、名門近江源氏の裔であり、耳目を集めていた。

 人間は平等だと喧伝されるが、残念ながら不平等こそが本質であり、生まれ持った差異は厳然とあり、同じことを仕出かしても叱られる人間と許される人間が存在する。

 まさしく道誉は後者であり、この時代の習いとは言え、双方を天秤に掛けて、権謀の限りを尽くしたが、憎めない天賦の才を持ち合わせていた。

 対照的に大塔宮護良親王及び輔弼する楠木正成は、後醍醐天皇に翻弄されながら、理想に燃える英雄として描写されることが多くなっている。

 従来の一般的な見方としては、稀代の策士であり、婆沙羅の代表である道誉こそが、両陣営の仲介者として、天秤に掛けて、権謀の限りを尽くして、離合集散の度に自身の立場を盤石にしていくイメージである。

 両陣営とは、最初に執権北条高時と後醍醐天皇であり、浮沈の結果、後者に凱歌が上がり、建武の親政が開始される。

次に征夷大将軍を巡る大塔宮と足利高氏(尊氏)であり、足利幕府成立後も吉野を拠点とした南朝と京都を拠点とした北朝、政治を司る足利直義と軍事を司る高師直の対立は、何れも後者に軍配が上がり、その都度、道誉がキーパーソンとして、八面六臂の暗躍する構図で描かれる。

 日本人のメンタリティーとして、敗者を美化する判官贔屓が、抑々存在しており、楠木正成を理想と掲げる「太平記」及び皇国史観における忠臣のシンボルとして、戦後もタブー視され続けて、引き摺られている。

 拡大解釈されている感のある婆沙羅と神出鬼没のヒーローである楠木正成のカウンターパーティー且つアンチ・ヒーローとして、描かれる佐々木道誉に焦点を当てたい。


 建武の親政に繋がる「元弘の革命」を簡単に説明すると、武士階級の疲弊が鎌倉幕府に対する不満を高めて、崩壊を招くに至ったものである。

 特に文永及び弘安の役は、御家人に極めて重い負担を賦課したが、恩賞で報いる新たな財源がなく、紆余曲折を経て、打ち切るに至った。

 困窮した御家人に対して、貨幣経済の浸透によって、商才に長けた台頭する武士団が手にした土地を没収して、御家人に返還する悪名高い「徳政令」を発布した。

 流石に徳政令は一方的であり、支持を得ることが出来なかったので、元寇に沸く世論を利用して、夷狄の調伏を依頼した寺社の荘園を取り戻す「神領興行法」を発布した。

 元寇も大きな契機ではあるが、それ以前から博多を中心に宋銭の流入が著しく、「一所懸命」を旗印にした重農主義に綻びが生じ始めており、重商主義を背景にした新興勢力が跋扈しており、矛盾が臨界点に達していた。

 背景としてあるのが、これらの事象であるが、主要人物の行動に焦点を絞って、出来る限り、中立な立場で紐解いてみたい。


 宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の流れを汲み、名門である六角佐々木家の庶流、京極佐々木家に道誉は生まれた。

 また、佐々木家は、交通の要衝である近江を領有しており、所領の経営のみならず、流通業や金融業を営み、財を成していた。

それに加えて、領内に甲賀を有しているだけでなく、伊賀とも隣接しており、情報感度も研ぎ澄まされていた。

 更に、連歌、闘茶、香道及び立花などにも秀でた道誉は、猿楽や田楽などの有力な庇護者であり、諸国を巡る彼らもまた、情報の宝庫であった。

 抑々宇治川の先陣争いも生食(いけづき)を所望した梶原厳太景季には、磨墨(するすみ)を与えて、生食を佐々木四郎高綱に与えた為、恥辱と考えて高綱を殺害して、自害しようと決意していた。

 高綱は同士討ちの愚を苦慮して、機転を利かせて「これは賜ったのではなく、実は盗んだのだ」と言うと景季も「先に自分が盗めば良かった」と笑って許した。

 一番乗り争いの際にも高綱は、馬の腹帯が緩んでいる、絞め給え」と景季の油断を誘って、一足先に対岸に上陸したので、恐らく憎めないキャラクターだったのだろう。

 愛用した深紅の直垂も黒一色の東国の武者に対して、衆寡敵せず、埋没せず、「道誉、ここにあり」と存在をアピールする手段である一方、返り血を思い起こさせる視覚及び心理に訴える効果も、熟知していたのかもしれない。

 これを競って、美濃の土岐弾正頼遠を筆頭に派手な衣装を競った為、婆沙羅大名の代表とされるが、道誉にとっては、尊敬する高綱を意識しただけであり、追随者を歯牙にも掛けていなかっただろう。

 このような道誉に対して、六角佐々木家の当主である時信は、通常であれば、総領として最大の美徳である鷹揚な性格であったが、乱世に於いては、生真面目で律儀ではあったが、「それで、道誉」と指示を仰ぐ、暗愚凡庸タイプであった。

 「元寇の恩賞も打ち切られておるのに、得宗家だけ、焼け太りしているのは、如何なものじゃ」

 「時信殿、めったなことを口にするものでは、ありませぬ」

 「されども、門閥を形成して、要職を独占しながら、田楽と闘犬に現を抜かすのは、許せぬぞ」

 「だからこそ、両佐々木家が合力することが肝要でござる」

 「しかも北条家の祖は平氏じゃ、「いざ鎌倉」という気も起きぬわ」

 「このような時にこそ、地に足を付けて、兎に角、耐えましょうぞ、「奢る平氏は久しからず」自重して下され」

 分家である道誉にこそ、酔って大言壮語を吐くものの、極めて生真面目に職務を遂行するだけで、時流を読む能力は皆無であった。


 執権北条高時の御相伴衆を道誉が勤めた時には、偏諱である高氏を名乗り、同僚であった後の足利尊氏と同名であったが、尊氏もまた、源氏の棟梁であり、鷹揚な性格であったので、「ところで、道誉」と意見を求める優柔不断タイプであった。

 「高時殿が儂を見る目が怖いのじゃ、このような機運に乗じて、盛り上がる御家人の旗頭になどなりとうない」

 「足利殿に二心なきことは、高時殿も重々承知しておりまする、ご安心なされ」

 「されど、儂は東国育ち故、そなたのように器用に立ち回れん、それに周囲は猪武者に囲まれておるわ」

 「東国の武者は勇猛果敢であり、誠に頼もしくございまする、源氏の棟梁である足利殿に声望が募るのは、ある意味で詮方なきことでござる」

 「一族郎党を取り立てて、華やかな平氏とは異なり、源氏は身内こそ敵であり、相争うた結果が、現状の通りじゃ」

 「足利殿、それを言ってはなりませぬ、ご安心下され、同名のよしみ、いえ、宇治川以来の恩顧は佐々木家の誉れでござる」

時の執権である北条高時が、出家すると期を見て敏な道誉もまた、剃髪して「導誉」と名乗る要領の良さだけでなく、典雅な道誉を日頃から頼りにしていた。

実際に源氏の再興を願う御家人集団にとって、期待の星であったが、保元の乱後、平治の乱で追い落とされた源義朝の末路を辿ることを極端なまでに恐れていた。


 楠木家は、橘氏を祖とする説もあるが、詳細は殆ど不明であり、正成についても、赤坂の挙兵以前は、何も知られていないが、大和や河内を中心に没落した荘園領主や御家人から土地を没収して勢力を拡大して、海運業を中心に巨万の富を得ていた。

 商業的武士団にとって、徳政令並びに神領興行法は、まさに狙い撃ちであり、大きな痛手であったので、自衛手段を行使すると神仏に逆らう「悪党」と呼び、武力弾圧を実施した。

 寺社勢力の強い近江で、幅広く商業活動を行う佐々木家にとっても、頭痛の種ではあったので、楠木正成も挙兵に当たって、「これって、道誉」と助力を求める、至って熱血正義タイプであった。

 「時流の変化を見誤り、行き詰った状況を守旧勢力の最たる存在である寺社の肩を持って、我々を吊し上げるのは如何なものか」

 「近江の在にあり、重々承知仕るが、今に始まったことにござらん、隠忍自重が肝要でござる、楠木殿」

 「ここに至っては、最早堪忍ならぬ、ご助力が叶わぬは残念至極にござるが、大塔宮護良親王と共に立つ」

 「命を粗末にするのは、惜しゅうございまする、思い直して下さらんか」

 「座して死を待つよりも、乾坤一擲の勝負を挑まなければ、状況は悪くなるばかりでござる、ご助力頂けぬのは、如何にも無念」

 「立場こそ異なるも、お気持ちは理解出来ます故、楠木殿の武運長久をお祈り申す」

 新興勢力であり、純粋な悪党である楠木家と近江を領有する守護である佐々木家では、土台背負うものが異なるのが当たり前であった。

反武家政治の機運ではなくて、反北条若しくは皇位継承問題が争点となっていると考えられるので、巻き込まれるのを極力避けることが重要であった。

 当時、皇位が後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統が、交替で授受されていたことは、改めて言うまでもない。


 大覚寺統の正系は、後宇多天皇の第一皇子である後二条天皇であるが、尊治親王(後醍醐天皇)は、第二皇子であって、祖父である亀山天皇の寵愛が深かった為、持明院統である花園天皇の皇太子として立坊されて、即位された。

 大覚寺統もここに二流に分れて、問題を複雑化させたが、幕府は積極的に介入するのではなく、頻繁に繰り返されるトラブルを少しでも緩和するように「文保の和談」を試みただけだった。

 笠置山の要害によって、守兵も善戦して、六波羅勢を防いだが、大仏、金沢、足利を将とする関東の大軍が来着すると衆寡敵せず、後醍醐天皇が捕虜となられた時、乱髪で小袖一領帷子一領と浅ましい姿であったと「光厳天皇宸記」は伝えている。

 後醍醐天皇の隠岐に遷す際、道誉が宰領することになると、東国武士とは異なるので、「これから、道誉」と頼りにして、声を掛けられたが、底知れぬバイタリティーに充ち溢れた、唯我独尊タイプであった。

 「隠岐は寂しい処故、内侍の三位、大納言君、小宰相を同行したいのじゃが、何とかならぬか」

 「罪人として、流されるので、確約こそ出来ませぬが、無聊を託つに必要と提案してみましょう」

 「反北条ではありながら、反幕府にまで盛り上がっていないのを見誤ったわ」

 「配流の身にありながら、各地での歓待ぶりを見るに付け、帝のご威光に改めて、感じ入りまする」

 「東国育ちの言葉は、荒ましく、心細く情けないが、正成と大塔宮が再起するであろうから、待っておれ」

 「親兵に成り下がったと、噂されているので、平に慎むようにして下され」

 実子である大塔宮よりも、正成を頼りにすることは、寵愛を受ける内侍の三位によるものか、「太平記」にある有名な南木の夢によるものかは、定かでない。

 遷幸の道筋に当たる土地の有力者が、承久の変とは異なり、帝を鄭重に待遇したことこそ、裏返せば幕府に対する反感の表れと考えても差し支えあるまい。

 「天勾践ヲ空シウスルナカレ、時ニ范蠡ナキニシモアラズ」

 美作の院庄に行宮を設営した夜、何者かが御座所の庭に咲き乱れる桜の木を削って、墨痕鮮やかに書き付けた事件は、象徴的な出来事であった。

 楠木正成の行方を近江田楽の旅役者でもある間者を通して探らせたが、杳として不明であった、六波羅探題に肩入れしているのではなく、純粋にもう一度会いたかった。


 京極屋敷に馴染のない大和田楽の旅役者が訪れて、「高名な道誉様の前で演じさせて下され」と懇願した。

 芸能全般に新しい物好きなので、喜んで席を設けて、演じさせてみると斬新な舞台であり、大いに堪能したので、「馳走を振る舞おう」と言付けた。

 「華やかな席は、ご遠慮させて頂き、人払いを」と声を潜めたので、望み通り二人きりになり、話を聞いた。

 正成の間者でもあった旅役者は、「無事ではあるが、お互いに差し障りもあるので、面談を避けるものの、大塔宮護良親王に会って頂きたい」との申し出であった。

 願ってもない話であったので、先方の要望を全て受け入れることを、間者でもある近江田楽の旅役者を同行させて、伝えさせることにした。

 「太平記」には大塔宮が笠置から南都の般若寺に移り、旧習を受けた際に大般若経の経櫃に隠れて、難を逃れたとの記述も見られるが、作為があって信じ難い。

 後醍醐天皇の第一皇子若しくは第三皇子とも言われているが、亀山天皇の胤で弟である可能性もあり、母とされる民部卿三位も含めて、詳細は殆ど不明である。

 寵愛を受ける三位内侍こと阿野廉子の存在によって、後継者としては既に脱落しているも同然であるが、武力活動の中心的な立場であり、周囲からの声望も高いので、足利尊氏に対する牽制として、利用される恐れが多分にあった。

 大塔宮の目は、権力闘争にはなく、政道を質すことだけを考えており、「それって、道誉」と決起を促す姿に心を打たれた、権謀作術に塗れた濁世に珍しく、至誠篤実タイプであった。

 「十津川、高野、熊野の各地で活動しており、機運は高まっております故、吉野へ進出後は、何卒助力を願いたい」

 「帝の考えは、明らかに親政であり、武家の我等にとっては、到底受け入れ難いことも楠木殿に伝えた筈でござる」

 「仏門に入ったからこそ、神領興行法の弊害を重々承知しておりまする、私から帝にも口添えするので、ご安心下され」

 「所詮、只の御家人でしかない道誉を買い被るのは、お止し下され、源氏の棟梁たる足利殿こそ、適任でござろう」

 「政道を質すこと以外に、何の私信もござらん、武家の事柄を足利殿にお任せすることに、何の差し障りもありませぬ」

 「隠岐行きを宰領しましたが、恐ろしい人でござる、咬兎死して走狗煮られることを危惧しておりまする」

 南北朝時代の歴史物語であり、「四鏡」の一つである「増鏡」では、

 大塔宮は熊野にもおはしましけるが、大峯を伝ひて、吉野にも高野にもおはしまし通ひつつ、さりぬべき隈々には能紛れ物し給ひて猛き御有様をのみ顕はし給へば、最もかしこき大将軍にていますべしとて、附従ひ聞ゆる者最多くなりゆきける。

と大塔宮の精力的な活動を、具体的且つ詳細に記載している。

 当時吉野の一帯は、現在の山上ヶ嶽に至るまで金峯山と称され、修験道の本地として数多くの堂塔伽藍を連ねて、多数の僧兵を擁しており、その勢力は多武峯や高野山と拮抗して、相譲らなかった。

 大塔宮が吉野に拠られたのは、元弘二年の秋より早かったであろう、何故なら「中原師茂記」裏書によると、十二月二日に朝廷では十二社奉幣の儀を行って、天下の静謐を祈っており、これは必ず畿内に兵乱が起こったからであり、その中心が大塔宮と考えても差し支えないだろう。


 楠木正成がその拠点を回復した直後の書状と思われる「金剛寺文書」の中に、

 御巻数給ハリ候了ンヌ、早々進覧セシムベク候恐々謹言

 十二月九日 左衛門尉正成

 謹上 金剛寺宗徒 御返事

及び

 祈禱巻数賜ハリ候了ンヌ、種々御祈念、返ス返ス悦ビヲ為シ候、恐々謹言

 十二月九日 左衛門少尉正成

 謹上 金剛寺三綱 御返事

の二通があり、正成の官職が「左衛門尉」若しくは「左衛門少尉」と署して、当時の幕府側の文書にある「兵衛尉」と異なっているのも、恐らく正成と行動を共にした大塔宮によって、幽閉中の後醍醐天皇と連絡を取りながら、異例の昇任となったのであろう。

 赤坂を奪還した正成は、戦線を北方に拡大していることが、先述の「増鏡」にあり、

 正成は聖徳太子の御墓の前を、軍の園にして、出で合ひ懸け引き、寄せつ返しつ、潮の満ち引く如くにて、歳は暮れて果てぬれば、春になりて事ども有るべしなど云ひしらふも、最とむづかしう心ゆるびのなき世の有様なり。

ここにある聖徳太子の御墓とは、磯長の叡福寺であり、これによって河内、和泉一帯を手中に収めた正成は、電光石火の勢いのまま、摂津に進撃した。

これが有名な天王寺の戦いであり、「楠木合戦注文」にも記載されており、

 一 京都ヨリ 天王寺ニ下向ノ武士ノ交名人等

 両六波羅殿代・(一方竹井・一方有賀)継殿将監・伊賀筑後守・一条東洞院・五条東洞院・春日朱雀・四条大宮・四条堀河(トカミ)・姉小路西洞院・春日東洞院・同大宮水谷・中条厳島神主・芥河此外地頭御家人五十騎天王寺ニ城郭構フ。

洛中に宿舎を有する諸豪族の連合軍が、その兵数五十騎というのは、少な過ぎるので、恐らく五千騎の誤りだろう。

 四天王寺は、いうまでもなく聖徳太子の草創で、中世にも上下の尊信の篤かった霊場であるが、同時に難波大地の喉元を扼する要衝でもあり、その堂塔伽藍は有力な軍事基地であった。

 これに対する攻撃の陣容もまた詳しく同書に記載があり、

 一 同正月十九日(巳時)天王寺ヨリ寄セ来テ合戦ヲ致ス、交名人等、

 大将軍四条少将隆貞・楠木一族・同舎弟七郎・石河判官代百余人・判官代五郎・同松山・井子息等・平野但馬前司子息四人(四郎天王寺ニテ打死ス)平石・山城五郎・切判官代(平家)・春日地(同)・八田・村上・渡辺孫六・河野・湯浅党一人・其勢五百余騎・其外雑兵数ヲ知ラズ。

ここに正成の弟七郎が見えている他、河内源氏の石川一族、摂津平野の平野氏、南河内の平石・山城の両氏、遠く南山城の切・春日の二氏、大和の越智氏の一族の河野・村上の両氏と幅広く、地方の有力者が参集しているのが、注目される。

 特に興味深いのが、大塔宮の側近に奉仕して、令旨の執達に当たっていた四条隆貞が北上軍の将軍として奉載されており、これは大塔宮と正成との共同戦線が、非情に緊密であったことを示している。

 天王寺合戦に関して、「太平記」が伝える有名な物語は、正成が四天王寺に参詣して聖徳太子の書き置かれた「未来記」を閲覧したとあり、その一節に、

 人王九十六代に当ツテ、天下一タビ乱レテ主安カラズ、此時東魚来ツテ四海ヲ呑ム、日西天ニ没スルコト三百七十余箇日、西鳥来ツテ東魚ヲ食ラフ、其後海内一ニ帰スルコト三年、猿猴ノ如キ者天下掠ムルコト三十余年、大凶変ジテ一元ニ帰ス。

とあり、この名高い物語は、勿論作為であるが、一部の学者は聖徳太子の「未来記」自体を疑っているが、藤原定家の「明月記」にも、

 人王八十六代ノ時、東夷来ツテ王ヲ泥シテ国ヲ取ル

との記述もあり、当時は権者の予言として、大衆の信仰を発起させる為、僧徒によって作成されて、度々利用されたのであろう。

 道誉が足利尊氏を訪ねると、「気分が塞いでいる」ので、面談は叶わなかったが、弟の直義が楠木正成及び大塔宮との関係を嫌い、遠ざけていた可能性が高い。

 播磨の赤松円心は、その子則祐が大塔宮に近侍していた関係で、早々に令旨を奉じて摂津の麻耶に拠って、京都を窺ったので、六波羅の動揺は大きく、佐々木時信に命じて、討伐させたが高名な麻耶合戦で大敗した。

 時信への処分を軽減するように北条高時に対して、異例の懇願を道誉がしたのも一族の立場を重視したからであろう。

 兵火は海を越えて、四国伊予で河野一族の土居通増、得能通綱が蜂起すると九州肥後の菊池武時も錦旗を掲げて、挙兵した。

 こうした各地の挙兵は、六波羅や鎌倉の幕府当局を憂慮させて、狼狽させたが、最も驚愕させたのが、隠岐に遷幸された後醍醐天皇が、孤島から脱出して、伯耆の名和氏に保護されたことであった。

 しかしながら、この情勢に際して、北条氏を去って天皇に属すことで、局面を一変させたのは、やはり足利尊氏であった。

 三河の矢矧から、伯耆の行在に細川和氏及び上杉重能を遣わして、綸旨を尊氏に渡した場所は、近江にある鏡の宿であった。

北条仲時及び時益は、宮中から六波羅に避難されていた光厳天皇、後伏見・花園の両上皇並びに皇后その他の方々を奉じて、東奔したが、道誉が差配した野伏によって、討ち取られたので、帰趨を制する三種の神器を奪還する一翼も担った。

 身に付けた深紅の直垂は、ここでも大塔宮及び正成へのアピールだけでなく、戦況を眺めながら日和見を決め込む尊氏に行動を促すサインでもあった。

 日頃とは異なり、道誉を遠ざける尊氏の態度は、周囲を欺く目的を持っているだけでなく、今後予想される弟である直義と側近である高師直の確執を睨んでいたのだった。


 冒頭の二条河原落書は、建武の親政に対する落胆の最たる例であるが、抑々大覚寺統に連なる歴代天皇の諡号が、後宇多、後醍醐、後村上であり、何れも王朝の黄金時代を懐古した名称となっている。

しかも生前からの意志であったことを鑑みれば、貴族政治の復活だけでなく、後醍醐天皇が復位された時、関白を廃したまま、その後も任命することがなかったので、藤原氏の摂関政治以前に遡ることさえ、視野に入れていたことも想像に難くない。

 内奏の随一として指摘されたのは、阿野准后乃ち新待賢門院であり、「太平記」には、

 御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てければ、上卿も忠なきに賞を与え、奉行も理あるを非とせり。

と批判的な記載があり、

奈何せん傾城傾国の乱今に有りぬと覚えて、浅ましかりし事どもなり。

のように、長恨歌における寵愛を受けて、意のままに振る舞い、国を危うくさせた悪名高い楊貴妃と比較されている節も見られる。

 いずれにしても革命による利益は、何よりもまず天皇の側近であった貴族によって占められることになり、「太平記」によると最大の例である千種忠顕は、大国三カ国、関所数十カ所を賜り、その奢侈は目を驚かすばかりであった。

 南北朝時代を代表する歴史書若しくは軍記物語である「梅松論」にも、

 爰に京都の聖断を聞奉るに、記録所・決断所を置かるるといへども、近臣臨時に内奏を経て、非議を申断間、綸言朝に変じ、暮に改りしほどに、諸人の浮沈掌を返すがごとし。

とあり、恩賞の不公平、所領の不安定が当時の世相を益々混乱させた。

 二条河原落書に代表される怨嗟の声を、後醍醐天皇に進言しようと試みたが、千種忠顕を通して、伝えるように回答があった。

 新待賢門院の内奏を促して、「それが、道誉」と開き直る為体であり、混乱した状況を是正する姿勢は、微塵も見られなく、典型的な腐敗俗吏タイプであった。

 「寝る間を惜しんで、聖断を取り次いでいる最中に、一体何の用や」

 「反北条氏による討幕も、結局更なる混乱を齎す皮肉な結果になりつつ、あります」

 「全てを満足させるなど、土台無理な相談であり、我等も鋭意努力しておるのに、何たる侮辱や」

 「このままでは、武家を中心に新たなる火種となるやも知れませぬ」

 「帝を愚弄するのか、号令一声で馳せ参じる者共はいくらでもおるわい」

 「大塔宮の令旨に、「将軍宮」と称しているのも、お立場を微妙なものとさせるだけでござる」

 後醍醐天皇による新待賢門院の寵愛は、大塔宮の失脚を待ち望む尊氏にとって、格好の材料であった。


 自ら将軍宮を名乗ることは、乃ち大塔宮が征夷大将軍と称せられたことと同義であり、希望を反映したものであるか、当面の事態に対応する権宜の処置であったかは、勿論不明である。

 更に弁護すれば、抑々鎌倉幕府は、源氏三代の後、二代の摂家将軍を経て、京都から将軍を奉載するのが、通例となっており、最後の守邦親王は、鎌倉陥落の際に出家されて、その後まもなく薨去している。

 後醍醐天皇及び足利尊氏への面談を試みるも、芳しい返事を得ることは出来ず、大塔宮にも同様の連絡を取ったが、「微妙な立場あり、双方にとって危険な状況であり、自重したい」との回答だった。

 革命後の新政府にとって、大塔宮の処置こそ、最初且つ最も困難な問題であり、元勲中の元勲であり、令旨に従うことで、恩賞を求めて、馳せ参じた一大勢力の声望を一身に背負っていた。

 源氏の棟梁たる足利尊氏に対抗すると目される新田義貞に武家同士の反目こそ、貴族を利するだけだと自重を求めたものの、「なにが、道誉」という態度が見え見えであり、典型的な夜郎自大タイプであった。

 「足利の旗下にある者が弓引き合う悲劇を繰り返してはなりませぬ」

 「黙れ、新田も河内源氏の裔であり、御家人連れと一緒にするな」

 「この度の戦で、武家は疲弊しております故、これ以上の無益…」

 「黙れ、尊氏の走狗奴、帝への謀反を企むのであれば、受けて立つと伝えろ」

 「何と情けない、一人の考えとして、申し上げ…」

 「消えろ、貴族の皮を被って、雅な立ち振る舞いをする蝙蝠奴」

 当時の一般通念として、還俗は行法に外れた破戒の所為であり、大塔宮も先の天台座首が身分であり、非難される所業であった。

 既に道誉には、関与すべき方策も尽き果てており、身に降り掛かる厄災を考慮すれば、百害あって一利なしであることを悟った。


 大塔宮朝廷の承認乃至保障を得るに至り、漸く入京されて、「太平記」によると赤松円心、四条隆資等の武士が随従した。

 ここにおいて、新政府と大塔宮の間に齟齬が生じた、大功に対する冷淡に不満を感じる一方、制御し難いことに対して、次第に制限が加えられた。

 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのでしょうか)」と磔刑のイエス・キリストが吐露した科白若しくは本邦における九郎判官義経の腰越状に類似する感情であったと思われる。

 阿野准后の一宮であられる恒良親王(後村上天皇を皇太子に冊立するだけでなく、成良親王が上野守として、足利直義に奉載せられて、鎌倉にその政庁を定められた。

 最後の破局は、大塔宮が参内された折、武者所の武士が突然に捕縛して、常磐井殿に禁固するや否や関東に護送されて、鎌倉薬師堂の谷の東光寺にある土牢に幽囚されることとなった。

 大塔宮失脚の際は、新政府の混乱に乗ずる形で、北条氏の余党が各地で蜂起しており、正成も京都を去っており、飯盛山の攻撃を見計らってクーデターが挙行されたと考えるのは穿ち過ぎであろうか。

 東光寺に幽閉されること半年余りで、北条時行が蜂起した所謂「中先代の乱」の敵兵が鎌倉に迫った折、直義が西走するに際して、後患を残すことを恐れた結果、殺害されてしまった。

 ここに至って、建武の親政が蜃気楼であったように感じられて、至急尊氏に面談を求めたが、代わりに現れたのが直義であった。

 鷹揚な尊氏と比較すると陰険な感じのする直義は、「だったら、道誉」と一切の非を認めず、眉の根一つさえ動かさないで、権謀作術を謀る冷酷無比タイプであった。

 「何故に、大塔宮を殺害したので、ござるか、直義殿」

 「これは、これは、異なことを言うわ、逃げるに必死で、救援もままならなかっただけにござる、道誉殿」

 「偽りは無用、淵辺殿に誅殺をさせたことも承知の上でござる」

 「建武式目によって、婆沙羅は禁じられておろう、高師直とも随分と親しいようじゃのう、我等兄弟を敵に回す心算でござるか」

 「何と仰りまする、宇治川以来の恩顧は佐々木家の誉れでござる」

 「これからも、一所懸命に足利の御家人として、期待しておるぞ」

 政務を司る直義と軍務を司る高師直の反目も目立ち始めたが、大塔宮亡き後、旗印が正成若しくは義貞では、土台話にならないことは、明白であった。


 建武の親政に対する不満の高まりは全国に拡大して、出羽の小鹿島・秋田の北条党が津軽に侵入して、関東でも本間・渋谷一族の叛乱があったが、最大であったのは、鎌倉を一時占拠した北条時行の挙兵であることは、前述の通りである。

 鎌倉を奪還した尊氏を討伐すべきとの強硬論に対して、朝敵の汚名を着せられる機先を制して、義貞討伐の奏上を朝廷に奉り、同時に諸国に檄文を伝えた。

 箱根・足柄に義貞を破った尊氏の地位は、百五十年前、富士川に平維盛を破った、源頼朝に似ているが、流人の身で兵を挙げた頼朝が追撃することなく、関東の根拠を固めたのに対して、尊氏これに反して、大多数の武士の期待を担って、一挙に官軍を制圧する必要があった。

 一時的に尊氏も京都を占領して、これに降伏する武士も頗る多かったものの、北畠顕家が、その父親房と共に義良親王を奉じて、奥羽の軍勢を率いて、到着したことで悪戦苦闘の後、官軍は辛うじて京都を奪還することが出来た。

 尊氏が西走するに当たって、光厳上皇の院宣を拝受したことは、有名な事実であり、尊王心も乏しからず、多数の武士に推戴されても、朝敵の名を負うことは、最も欲しないことであった。

 兵庫から室津に至り、諸将を各地に配備して、乃ち四国には細川和氏らの一族、播磨には赤松円心、備前には石橋和義、備後には今川顕氏、安芸には布河義盛、周防には大島、大内、長門には斯波、厚東が配置されて、後方の防御及び再挙の計画は周到であった。

 正成が兵庫に降る途中、山崎に近い桜井の宿で、嫡子正行を河内に送り還すに際して、最後の教訓を伝えた逸話所謂「桜井の別れ」の場面を「太平記」では、

 今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふなり。正成既に討死すと聞きなば、天下は必ず将軍の代に成りぬと心得べし。然りと雖も一旦の身命を助らんが為に、多年の忠烈を失ひて降人に出づること有るべからず。一族若党の一人も死残りて有らん程は、金剛山の辺に引籠つて、敵寄来らば命を養由が矢先に懸けて、紀信が忠に比すべし、是ぞ汝が第一の孝行ならんずる。

と悲壮な覚悟を述べている。

 正成の最期となる湊川の戦いは、官軍に対して、足利軍は二倍以上の雄性を保ち、士気も大いに違っており、火を見るよりも明らかであった。


 物思いに沈む道誉の元へ、久し振りに高師直が訪れて、杯を傾けることを希望した、依然は気軽に行き交いしていたものの、このところ遠慮していた。

 東国武士の典型例でもあり、含む所が一切なく、胸襟を開いて、本音で話すことが出来た数少ない盟友であり、「どうよ、道誉」と杯を傾けて、情報収集に抜かりがないが、「いざ鎌倉」を体現する豪放磊落タイプであった。

 「源氏の悪い癖が、また出てしまったようじゃ、儂も直義との決着をせざるを得ないだろうが、血は水よりも濃いので、正直に言って旗色は悪い」

 「尊氏殿は、師直殿の衷心を何よりも知っておられるので、問題なかろう」

 「甘い、甘い、直義を舐めたら、痛い目に合わされるぞ」

 「されど、尊氏殿と直義殿では、声望も雲泥の差であり、勝負にならんだろう」

 「知恵者の道誉殿でも、王道までは頭が回るが、覇道に及ばなかったか、妾腹の直冬を養子にしており、旗頭に据える筈じゃ、上様並びに義詮殿を頼む」

 「英邁な直冬殿ならば、不憫に思う御家人も西国を中心に居るだろう、道誉、一生の不覚、ご注進に感謝致し申す」


 直義と師直の対立を巡る定説は、直義が基本的に鎌倉幕府の路線を尊重して、維持することにあり、寺社及び公家層を始め、有力御家人や奉行人層、地域的には東国で指示される傾向があった。

 反対に師直は、朝廷や寺社等の伝統的な権威を軽視して、武士の権益を拡大することにあったので、畿内の新興武士層や価格の低い譜代層や庶子といった、所謂成り上がり者を中心とした強力な軍団を形成した。

 楠木正成及び佐々木道誉も立場こそ異なるが、心情的に師直に近かったのであり、改革でなく、破壊による革命を強行した織田信長の出現まで解決しなかった問題であった。

 勿論、定説では説明出来ない様々な要因も存在するが、最大の要因として考えられるのが、足利直冬の処遇であることは、間違いないであろう。

 資料に乏しく、理由は明らかでないが、尊氏の実子であり、有能な直冬を何故か異常に忌み嫌われて、排除され続ける状況に判官贔屓による同情が集まったことは、否めない。

 実際に、畠山国清や少弐頼尚等の裏切りに関しては、直冬の紀伊遠征や長門探題としての実績が、考慮されたのであろう。

 観応の擾乱第一幕とされる師直の暗殺未遂と執事解任の動きは、義詮を後継者とする尊氏の意向を受けて、強引に推し進める師直に対する反発が端緒であった。

 師直が執事を解任されて、代わりに上杉朝房が抜擢されることが、決定された夜、京極屋敷に直冬が訪れた。

 実父である尊氏により、実績を評価されずに冷遇され続ける身を嘆き、「こんなの、道誉」沈鬱悲壮タイプであった。

 「紀伊遠征では、父に認められるように奮闘したのに、黙殺されて」

 「防戦の場合、新たな恩賞が難しいので、敢えて身内贔屓を控えなされたのであろう」

 「恩賞でなくても、鎮西探題を認めてくれず、格下である長門探題に」

 「幕府の権威も確立されず、まだまだ厳しい状況にあるので、今暫くの辛抱が肝要でございましょう」

 「叔父の後任として、義詮は取り沙汰されておるのに」

 「何卒、義詮殿を輔弼して、短慮はお控え頂くよう、平にお願い致しまする」

 師直のクーデターとも言える「御所巻」によって、直義が出家して、義詮が「三条殿」に就任すると、直冬は九州に転進した。


 光厳上皇の命を受けた夢窓疎石の仲介によって、直義が政務に復帰して、師直も執事に復活すると、三方制内談方が廃止されて、五方制引付方が復活して、道誉も名を連ねることになった。

 直冬が九州で挙兵すると一大勢力となり、尊氏は討伐命令にまで発展したが、効き目がないまでに直冬の勢力は拡大していた。

 義詮の将軍後継者として、地位を確実にする為、執事師直以下の軍勢を率いて、美濃遠征を成功させて、北朝から参議及び左近衛中将に任命された。

 美濃遠征こそ、成功に終わったが、地方情勢は不穏となり、九州の直冬の威勢も増していく一方であり、尊氏自身が執事師直の軍勢を率いて、出陣しなければならなかった。

 出陣直前に直義は、突然京都を脱出してしまったが、完全に「過去の人」と判断して、捜索もせずに放置したことが、致命的なミスとなってしまった。

 続いて直義が繰り出した妙手が、南朝への降伏であり、以降権力争いに敗北すると南朝方に転じる武将が続出した為、徒に南北朝内乱を長期化させたが、直義が嚆矢となってしまった。

 窮地に陥った尊氏は、師直を出家させることで、直義と講和を成立させたが、上杉重季若しくは能憲による父の仇討ちで、惨殺されてしまった。

 直義の圧勝によって、幕を閉じた観応の擾乱第一幕であったが、実子如意王を失った直義に達成感は、微塵もなかった。

 基本的には、擾乱発生直前の義詮による三条殿体制に復活させることが決定して、直冬が正式に鎮西探題に任命された。

 依然と同様に尊氏は、恩賞充行権を確保したことで、逆転勝利を決定したが、師直を殺害したことへの尊氏への遠慮及び如意王を失って、無気力になっていた。

 束の間の平和に綻びが生じたのは、直義に対して、義詮が強硬な態度で臨んだことであり、師直に多大な恩義を感じる義詮の直義への反感は、観応の擾乱第二幕の大きな要因になった。

 嘗て気弱で優柔不断であった面影は、消え去って、「あいつって、道誉」と激しく燃える臥薪嘗胆タイプであった。

 「暗殺未遂に執事解任、一方的に敵対した上、肉親の情を逆手にとって、蔑ろにして、憎んでも憎み切れない奴」

 「父上と叔父上が手を結んだのだから、過去の恩讐を超えなくては、なりませぬ」

 「出家を条件としながら、無抵抗のまま、無残に惨殺されたのですぞ」

 「下手人は、父の仇を果たしたので、叔父上には、何の関与もありませぬ」

 「黙れ、大塔宮を謀って、殺害した奴の言動など、信じられぬ」

 「義詮殿、いい加減になされ、一族が争っている場合では、ありませぬ」

 師直亡き後、後見人を務める道誉さえ、持て余してしまい、窘めても聞く耳を持たない強硬姿勢は、更なる混乱の種となった。


 恩賞及び安堵は、停滞して、引付頭人の人事では、実務に暗い武闘派が任命されて、武士だけでなく寺社も失望させて、守護の人事及び官職の補任でも期待に応えることが出来なかった。

 禁じ手である南朝降伏も「吉野御事書案」を幕府として、受け入れられる筈もなく、交渉も当然ながら、決裂に終わった。

 赤松円心の三男であり、大塔宮の側近であった則祐が、宮の遺児である興良親王を奉じて、武力蜂起した。

 道誉は則祐の舅であり、蜂起に当たって、「こういうのって、道誉」と非業の死を遂げた大塔宮の意志を継ぐ、気心の知れた、以心伝心タイプであった。

 「直義殿は、南朝降伏が祟って、身動きの取れぬ状態でございまする」

 「大塔宮を慕う人間は、まだまだ数多く、大義名分も立つであろう」

 「南朝との交渉窓口を保有することは、有利に事を運ぶことが出来まする」

 「義詮殿の御前沙汰によって、直義殿の引付方も風前の灯であろう」

 「茶番劇を繰り返して、直義殿の慰留を継続しておりますが、時と共に無力化されておりまする」

 「師直殿の無念を晴らすことも、義詮殿も表立っては、無理でも黙認してくれるであろう」

 道誉は娘婿に同調して、南朝に寝返ったのだが、興良親王を奉じて、南朝方に転じて、尊氏に敵対していた則祐が、南朝との同盟を仲介した。

 直義が死亡したのは、奇しくも師直の命日であり、如意王を亡くした翌日でもあったので、毒殺説が流れたが、暗殺に用いたとされる「鴆毒」の存在も怪しい。


 「太平記」が、義詮の後見人として、君臨した道誉ではなく、義満の後見人として、細川頼之が出現して、台頭することで終わっているが、虚しい感情ではなく、肩の荷が下りたと息を着いていると思いたい。


 ここまで、道誉の事績を正成との対比することで追ってみたが、歴史は批評するものでなく、学ぶものであると中立的な立場出来る限り意識した心算であるが、そうでない部分も多分に見られるのは、偏に筆者の実力不足である。


もう一つのテーマである婆沙羅の定義に関しても、尊王と自立の思想を縦軸に取り、殺伐と華美の行為を横軸にと取って分析する。

出自及び家格が、縦軸の決定要因となり、出身及び家風が、横軸の決定要因になる傾向が高く、後の戦国時代になると、縦軸が「下剋上」一色に変貌したのに対して、横軸は殺伐が「うつけ」となり、華美が「傾奇」に変貌したと思われる。

全員が婆沙羅と一色丹にされるが、道誉は尊王、華美、正成は尊王、殺伐となり、師直は自立、殺伐、頼遠は自立、華美に分類されるので、定義が曖昧であったが故、時代の寵児若しくは徒花に終わったと推測される。

道誉が庇護した田楽や猿楽は、能楽に昇華して、闘茶、立花も其々茶道、華道となり、日本美の頂点とされる「安土桃山文化」の意志杖になったことも記しておきたい。

「婆沙羅って、道誉」


建武の親政が地に足が付いていないのは、時代の変化に対応出来ず、反北条ではあったが、反幕府況してや反武家ではなく、道誉や正成といった勃興勢力が主人公であったが、尊王の軛によって、挫折したのだ。

後継者争いの愚を避けて、直系長子と取り決めた徳川家康及び春日の局による先見の明により、徳川幕府は二百六十年に亘って、継続したと思われる。


江戸幕府の崩壊が、尊王と佐幕、開国と攘夷が有耶無耶になり、尊王攘夷一本に集約されたことを比較すると面白い。

 更に南北朝時代は、恒常的に異常気象が発生しており、寒冷、旱魃、彗星の出現、大洪水、疫病のオンパレードであった。

 清水寺の火災、四条河原における橋勧進の為、開催された勧進田楽は、突然桟敷が崩壊して、不吉とされる天文現象が続き、大規模地震まで発生した。

 江戸末期にも火山の噴火による飢饉が発生して、大規模地震が続き、コレラまで発生した類似性も併せて考えたい。


 殺伐とした時代にあって、権謀作術を駆使したのではなく、反対に人間関係を重視しながら、一族の融和を重んじて、時代の変革を促し続けたのが、佐々木道誉であり、特筆される風貌及び行動が婆沙羅と呼ばれて、流行したのだろう。

 「道誉って、道誉」

                                        了


参考文献

「楠木正成」植村清二 中公文庫

「観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い」亀田俊和 中公新書

「詠う平家殺す源氏 日本人があわせ持つ心の原点を探す」谷沢永一、渡部昇一 ビジネス社

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?