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由女児以止之幾美己以之

序章

 ある意味顧客への詐欺のような、そんな日本の証券会社のビジネスモデルを理解すると、証券マンとして、無邪気に順位や数字を競うことが出来なくなった。また、営業実績を重視する会社のやり方に、一般社会では考えられないような不正行為が繰り返されていることを知り、看過できず、上司との衝突を重ねた。

 気が付くと僕は会社の厄介者になっていた。左遷され、閑職を転々とさせられた為、仕事に興味もなくなり、退職は時間の問題だった。

 そんな抜け殻のような僕を慰めてくれたのが、書画骨董だ。

 浮世絵では北斎や歌麿よりも豊国や国貞、そして国芳。

 美人画では、深水や清方、松園のような本格的なものよりも虹児や淳一。そして何より、一番好きなのが夢二だった。

 会社との関係が愈々険悪なものになり、給与も下げられ、日々の生活の資金繰りさえ危うくなったので、大事にとっておいた夢二のセノオ楽譜や版画も、まさしく断腸の思いで手放さざるを得なくなった。

 作品を手放したものの、いや、手放したからこそか、夢二への思慕は募るばかり。趣味の読書にと思い古書店を巡っては、夢二について書かれた本を手に取ってしまう。

夢二と言えば、

 待てどくらせど来ぬひとを

宵待草のやるせなや

今宵は月も出ぬさうな

 有名な宵待草が定番であるが、

 花のお江戸ぢゃ夢二と呼ばれ、

国へ帰ればへのへの茂次郎

僕は何故だか後者に惹かれる。

夢二について読み、夢二について考え、夢二について思いを巡らせるうちに、気持ちの中に夢二が溢れ、いつしか、夢二について書いていた。

小説なのか評伝なのか随筆なのかは分からないこの文章には、確かに、僕の中から出てきた夢二が存在しているのである。

 

夢二を育んだもの

1884年(明治17年)9月16日に後の竹久夢二は、武久茂次郎として誕生。

落人伝説の名残りであり、平家再興を期して、武運長久に因んだ武久姓を1887年(明治20年)に竹久姓に改める。

家族は五十七歳の祖父市蔵、四十九歳の祖母利久、三十一歳の父菊蔵、二十七歳の母也須能、六歳の姉松香、兄加津多は前年に夭折しており、妹栄は夢二が六歳で誕生した。

 

夢二曰く「祖父は酒屋の主人の癖に人形芝居をやりながら各地を放浪した」室津や赤穂に酒を積んで運ぶ傍ら遊芸にも精通した村の顔役であった。

この記憶についても夢二が自らの放浪癖を代々続く宿痾のように正当化している可能性も否定出来ない。

しかしながら夢二の幼馴染である詩人正富旺洋の追憶(「書窓」三巻三号)によれば、夢二の家で浄瑠璃の文句に合わせて、男面や女面を着けて所作を見せる「面芸」で遊んだとある。

そんな市蔵も一徹で頑固な利久には頭が上がらず菊蔵は甘やかされて育っており、也須能は万事控えめな存在であった為、竹久家は利久中心に動いていた。

『(前略)田舎の男の児は頭の髪をお罌粟坊主に剃りあげる習慣があつた。剃刀を使ふのは祖母の役であつた。わたしは痛さに堪へず声をあげて泣き出す。すると祖母は縁側からすぐ前にそびえた殿山の峰を指しながら、

「そをら、あの山の尾根を見ておいでよ。今に獅子が飛ぶからなあ」(中略)

私は痛さを怺へて山の方を見てゐるあいだにおけし坊主は出来上がつたものだ。』(「竹久夢二遺作集」)

勿論、獅子が飛ぶことを信じていたのではないが、有無を言わさない圧力、夢二から見れば畏怖の対象だったのだろう。

僕の祖父母は、母方の祖母以外、僕が生まれる前に亡くなっており、彼女は事ある毎に枕頭で滔々と陸士卒恩賜組の亡き祖父の話をした。

いずれにしても、祖父母にとって、夢二は長男の生まれ変わりと考えられて、惣領息子として特に可愛がられて育った。

 

夢二を良く知る有本芳水の言葉を借りると、父菊蔵はド助平もいいとこで、土地の後家や娘に片っ端から手を出して、周囲から激しく非難され、村八分にされて夜逃げ同然だったと言う。

この話も夢二の女癖を誇張若しくは代々続く宿痾のように正当化する為に引用された可能性も否定出来ない。

時代背景を考えると祖父市蔵も同様であったが、昔ながらの派手な生活が、明治以降の経済的変化や社会状態の激動、就中キリスト教の齎した潔癖な倫理観によって排斥されたのではないだろうか。

『(前略)多分十一歳の時のことだ。高等科一年の二学期のことだ。今まで二十番目位でゐたのに、二学期の発表で百一番だ。およそ二百人ほどのクラスだ。A組とB組の級長になつたわけだ。が百一番にはがつかりして家へ帰るとおはぎがどうしても咽喉へ通らない。母さんは「ええよ〱、今にまたうまくゆくこともあろうよ」とか言つておはぎ餅をしきりにすすめてくれた。』(「病床遺録」)

百人中の一番と自分で自分に言い聞かせても落ち込む夢二を励ます母也須能の優しさと捉える見方もあるが、夫の我儘に振り回されながら一日中形振り構わず働かなければならなかったので、放任と見た方が正しいのではないだろうか。

因みに夢二は晩年に至っても、おはぎが大好物であり、ポンポンと口に運んでいたと言われている。

母は陸士卒の恩賜組である自慢の祖父を持ち出して、勉強は出来て当然だと言って父と喧嘩をした後、農家の次男坊と父の出自に陰口を叩くので、正直言って、胸中複雑であった。

当時の事であり、今とは比較にならないほど惣領息子は特別だったので、真ん中長男として夢二も思うところがあった筈だ。

 

母ありき髪うつくしき姉ありき

されど運命はわれにつらかりき

夢二の歌や短文に登場する美貌の姉松香の最初の嫁入りの日に自分の名前と共に竹久松香と万感の思いを乗せて柱に彫り付けた。

前述の正富旺洋も「松香さんも、容貌のうつくしさは、人目を引いた」と書き、夢二と共に最初の嫁ぎ先を訪問した時の事をこう書いた。

『(前略)その美貌の姉さんがゐられた家の奥座敷で晝御飯を馳走になったことがあった。(中略)あの姉さんも夢二君の繪の中にあるやうなひとであった。』(「書窓」三巻三号)

松香が最初に離婚した原因は、父菊蔵の放蕩の所為だとされているが、その後二度の結婚をした。

夢二は妻や恋人の不和や離反に多弁だったのに、家族の事になると軽率に口を開かなかったが、最後の思いをこう書き残した。

『松香は私の姉で最も私を愛しています。彼女を悲しませるのは辛い。』

「血をわけて生まれ遠く別れし妹へ」(「夢二画集秋の巻」)と妹栄を語るが、可愛さ余って虐めてしまって自分も傷付く夢二らしい愛情表現の源流を見出すような気がする。

波乱万丈の家族生活を眺め続けた栄は、平穏な家庭婦人として暮らして、両親を引き取り、看取っている。

人の話に割り込んで自分の話をする悪癖を知っていても直せない僕であるが、その癖は、活発な姉妹に比べて引っ込み思案で発育の遅かった僕に母が夕食時に無理やり話させた事が影響している。

この癖を、別れた妻は、「会話泥棒」や「お前の家族は新興宗教か」と言って嫌悪していたが、それでも治らなかった。

活発で目鼻立ちの整った姉と何をやっても優秀な妹、それに引き換え、一人だけ親の心配をさせ続けるそんな僕を思うと情けない。

 

北に中国山地を連ね、南に瀬戸内海を有する岡山県邑久郡本庄村(現、瀬戸内市)は、太和や出雲と並ぶ、古代吉備文明とも言える文明が栄えた地域でもあった。

「古事記」に名を残し、「万葉集」にも歌われて、朝鮮通信使の寄港先にも指定されており、唐子踊り等の異国情緒溢れる郷土芸能が今でも残っている。

江戸時代も一大商業地であり、裸祭りで有名な西大寺と牛窓港を結んでいる瀬戸の要衝であり、街道筋の宿場町なので、商人だけでなく、四国への巡礼や諸国を歩く旅芸人が草鞋を脱いだ。

夢二の生家は旧街道に面しており、彼らの旅ゆく姿は夢二に多大な影響を与えた。

本庄村は典型的な水郷であり、良質な酒造米である備前米を産出する穀倉地帯からコメを輸送する、田舟と呼ばれる長方形の舟で賑わった。

流行や風俗が次々に現れる土地の造り酒屋の富、地位、顔は絶大であり、祖父市蔵、父菊蔵も並びなき、最高の旦那衆だった。

しかし、その立場は永遠には続かなかった。市蔵から菊蔵の代にかけて、彼らの放蕩、事業の失敗、借金の保証人等諸々の理由もあってか、実のところ、家産は右肩下がりの一途だったようだ。

神戸中学に進学した夢二だが、ジフテリアに罹患して帰郷した。夢二の帰郷中、十九世紀の終末を告げる1900年(明治33年)2月10日、正富旺洋の言葉を借りると「突如一家がいなくなった」。夜逃げ同然で九州八幡枝光、最近出来た製鉄所で再起を図る父菊蔵の決断だった。

『(前略)海から見た山では讃岐の象頭山と神戸の摩耶山を思ひ出す。象頭山は十六歳の私、郷里を落ちて九州へ行く時叔父と二人船から見たのと、神戸中学へ入学した年、船の中から見た摩耶山は今も忘れない。』(「砂がき」)

僕の父は、滋賀県の豪雪地帯にある農家の次男坊で、高校を卒業すると大阪府の地銀に野球チームの採用枠で入社した。

当時、東京オリンピックを控えて、企業スポーツが盛んであり、京滋、京福と辛酸を舐めて甲子園には出られなかったが、先輩の推薦が物を言った。

高卒の悲哀を味わった父は子供たちの大学進学に拘っていたが、残念ながら僕には響かず、遊んでばかりいた。

地方の国立大学に進んだ姉、関西の国立大学に進んだ妹。当初家計を心配して、妹は、高校卒業後、就職を選択する旨進路指導担当に話していた。その為、驚いた教師から家に連絡があった。

妹の前で恥も外聞もなく、父は号泣して、「三人共進学させるのが夢だ」と譲らなかったそうだ。親の気持ち子知らずで、僕は何を知らされることもなく、関西の私立大学で気楽な大学生活を謳歌していた。

典型的なニュータウンに育ち、豊かではなくとも、特に不自由を感じることもなかったが、高齢化が進行して、都市近郊のマンションに転居することを決めた際も姉寧ろ妹が全ての段取りを付けた。

 

富国強兵の象徴でもあった八幡は製鉄業を中心に拡大して、活況を呈しており、父菊蔵は労務者を斡旋する口入業や金貸しを生業とした。

姉松香の三度目の結婚相手も妹栄の結婚相手も製鉄所に勤務する男性であり、家族は落ち着きを取り戻したが、建設業の製図筆耕をしていた夢二だけ悶々としていた。

神戸で西洋モダニズムの洗礼を受けた夢二は、活気はあるものの殺伐とした環境に嫌気が差して、家出をして上京した。

夢二を育んだ江戸趣味も異国文化の接触もなく、八幡製鉄所の拡大、海軍工廠の設立も夢二にとって、八幡は息苦しいだけだった。

祖父母にとっては、終の棲家となる八幡であったが、家長の意向が絶対の当時であっても、惣領息子である夢二にとっては、耐えられなかったに違いない。

大学進学の意義も感じられず、それでも親の脛を齧って私立大学で形だけ経済学を専攻して、意に沿わない証券会社に二十五年間勤務した僕との違いは大きい。

 

岡山累代の藩主の善政により、領民は豊かであり変化を求めなかったので、幕末は勤王方に乗り遅れ、藩閥政府では疎外される結果を招いた。

明治維新後も激しい迫害を受けながら、キリスト教は恩恵の薄い者が活路を見出す拠り所となり、岡山県は全国で有数のキリスト教県となった。

自堕落で破滅的なイメージの夢二が、少年の頃からキリスト教的な色彩を帯びているのは岡山でキリスト教に触れたこと及び新興都市神戸で宣教師と交流したことの影響と思われる。

僕もプロテスタント系の幼稚園で賛美歌を歌ったり、詩編を暗唱したりしたが、反って宗教に対する警戒心を助長しただけだった。

 

母也須能と姉松香の助力で上京した夢二であったが、父菊蔵からも許しを得て、早稲田実業学校に通った。

美術や文学でなく実業だったのは、妥協の産物であり、黒田清輝主宰の白馬会洋画研究所に通って、藤島武二と出会う。

因みに夢二の名前は童話作家の小川未明に「君の絵はドリーマだね」と言われたこと及び藤島武二に由来する。

岡田三郎助や鏑木清方等に個性を伸ばすように助言されたとされるが、肝心なデッサン力が劣っていたとの説もあり、美術学校とは無縁であった。

何れにしても十分な仕送りも期待出来ず、当時の学生にとって定番であった車夫や書生等で糊口を凌ぐ苦学生であった。

僕の父は、親の脛を齧りながら肝心な勉強を怠ったと言って、学生運動に冷淡だったが、大学で自動車部に僕が入部した際にも同様に冷淡であり、学費を止められてしまった。

 

極貧に喘ぐ中、内村鑑三や安部磯雄の演説を聞いて、根底にあったキリスト教的な思想と共鳴し、夢二は社会主義結社の平民社に出入りするようになった。

因みに安部磯雄は早稲田野球部の創設者でもあり、夢二も熱狂的に応援していたが、権威の象徴である天下の一高(現、東京大学教養学部)を毛嫌いしていた。

夢二の風刺画は、平民新聞、中学世界等で発表されると、島村抱月の推薦もあり、東京日日新聞、読売新聞にも掲載され、人気の挿絵画家になっていった。

夢二は社会主義に共鳴しながら、幸徳事件を契機に運動から離脱していくが、嘗ての同志であり、同居人でもあった荒畑寒村はそんな夢二を痛烈に批判した。

『彼の描く女の類型が夢二式とよばれて少女雑誌の口絵をかざるようになると、彼はだんだん昔の仲間から同志呼ばわりされるのを迷惑がるようになりやがて私たちの交際はまったく絶えてしまった。

(中略)大正年代のはじめ、私は原稿をふところにして博文館に行くと久しく見なかった竹久が、ちょうど二階から下りて来るのにあった、私はなつかしさの余り覚えず「やぁ竹久じゃないか」とよびかけると、彼は階段の中途に立ったまま、しばらく訝しげに私の顔を眺めていたが、「アー、荒畑君カア」と気のなさそうな返事をしたものである。世俗的な才に富んだ彼を知っていただけに、私はその生まれた時からの超凡脱俗の芸術家だったような態度に、半ば呆れ、半ばおかしくてならなかった。』(荒畑寒村「左の面々」)

しかし、女性活動家で後に日蔭茶屋事件で名を馳せた神近市子によれば、夢二には刑事の尾行が付いており、大逆事件によって幸徳秋水等が処刑された日、大変興奮して通夜に参列した話も伝えられている。

僕の父は、学生運動にも冷淡であったが、日雇い労働者には更に辛辣であり、大阪万博で売り手市場だったので、目先の利益を追った連中に同情する必要はないと吐き捨てた。

 

夢二を取り巻く女性

夢二にとってまず欠かせないのが姉松香であり、村で催される子供芝居に姉の着物で「安達ケ原の袖萩」踊った思い出は度々語っている。

上京後、車夫や書生等苦学していたが、時々使いに出される屋敷に住む年上の女性を「姉様」と呼んで、面影を求めた。

「姉様」即ち年上の女性は安らぎの港であり、夢二が描く「詩を絵で書いた」感じの子供の絵は、郷愁を象徴しており、木を囲んで手を繋ぐ子供達の構図は生涯を通じて、繰り返されているが、何を象徴しているのだろうか。

姉の存在を皮切りに、夢二の女性遍歴は続き、研究者や伝記作家、ノンフィクション作家の好奇の的となっている。

一般的な夢二関連の書籍は、学術的な立場から中立なものもあるが、それはむしろ例外であって、基本的には、夢二への評価が肯定か否定かで二極分化しているように思える。独断と偏見に満ちているとお叱りを受けるかもしれないが、敢えて言うと権威主義若しくは体制派は夢二に辛辣であり、耽美主義若しくは反体制派は夢二に心酔している。

また、前述の立場による多少の例外もあるが、男性は夢二に肩入れして、女性は夢二を取り巻く女性を擁護して、夢二を弾劾する傾向がある。

従って、横軸に権威主義か耽美主義であるか、縦軸に男性か女性(性別よりも観点)であるかを取れば、四象限で表すことが出来ると考える。

そこで、独断と偏見で次の四つの文献を取り上げ、記述を比較してみよう。

1「竹久夢二」青江舜二郎 

2「夢二❘ギヤマンの舟」小笠原洋子 

3「竹久夢二抄」尾崎左永子 

4「夢二の小徑」森本哲郎 

以下、特に断りなければ、各書籍を文献1~4の番号で記す。

文献1は、男性視点による比較的権威主義的な立場。文献2は、女性視点でやや耽美的傾向が強い。文献3は女性視点ではあるが、権威主義と耽美主義の中間で、やや耽美主義寄り。文献4は、他の三つとはやや趣を異にし、夢二の作品を通しての文化論である。

特に興味深いのが、夢二とたまきとの関係性の書きぶりの違いだ。

夢二が戸籍上の婚姻関係を結んだのは、たまき(岸他万喜)だけであり、婚姻期間は僅か二年間であったが、それ以降も歪な愛憎劇を繰り返した。

たまきとの関係について、其々の文献では、文献1「業のおだまき」、文献2「たまきと夢二」、文献3「ミューズのいたずら」と記しており、立場の違いを窺わせる。

具体的な結婚の描写も文献1では、『(前略)三十九年の冬近く、たまたま早稲田で知り合った岸他万喜とははじめから「宿命的に」惹かれ合う(中略)こうした夫婦などにほとんど魅力がない(後略)』とにべもなく切り捨てている。

反対に文献2では、『(前略)明治三十九年十一月一日、東京の早稲田鶴巻町(新宿区早稲田鶴巻町)に出店した絵はがき屋で、店番をしていたたまきが男からそう尋ねられたのは、開店五日目のことだった。(後略)』運命的な出会いからたまきを主体に描かれており、出典も殆どたまきの手記となっており、たまきへの同情が読み取れる。

文献3では、『(前略)ヴィナスの神も氏の心根を憐れとや思ひけん、遂に大いなる眼の殊に美しき人を配せしめた給ひ、先の頃目出度く結婚の式を挙げ牛込区宮比町四番地に新宅を構へたりとぞ。(後略)』と「平民新聞」(明治四十年一月二十四日)の客観的な引用にとどめ、抑制が効いている。

夢二は、女性に対して自分だけの愛称を好んで用いており、たまきのことはまあちゃんと呼んで甘えていたようだ。

やくそく

約束もなく日が暮れて

約束もなく鐘が鳴る。

約束もせぬ寂しさは

誰に言ひやるすべもなし。

夢二は束縛を極端に嫌い、絵を学ぶのにも正規の手続きを踏まず、思いつくまま詩歌を作り、次から次へと女を渡り歩いた。

「寒さに凍えるヤマアラシ」のような関係は、一時期同居していた神近市子の証言によれば、『(前略)階下ではらはらするなか、しばらくすると声高な罵りあいも物音もぴたりととだえ、やがて乱れ髪を整えながら、機嫌のいい面持ちのたまきが階段を下りてくる。(後略)』ことが度々あった。

息子夫婦の暮らしぶりを危ぶんだ夢二の実家が孫虹之助を引き取って、協議離婚させたとあるが、夢二の意向が働いたとの説もあるので、不明である。

宵待草のモデルである長谷川賢のこともたまきの手記では、『(前略)あしか島で夢二がまた新しい愛人お島さん(賢の愛称)を作り出しました。(後略)』とある。

賢は既に他の男と婚約していたとも、夢二の女癖を危ぶんだ賢の両親が結婚を急いだとも言われており、後年賢自身が夢二のことを人に聞かれると、「まあ、今でいう、不良ね」と発言している。

僕の結婚も永すぎた春を経て、悲劇的な結末を迎えたが、健やかな時、喜びの時、富める時だけ良好で、病める時、悲しみの時、貧しい時を乗り越えられなかった。

 

たまきの自活を援助する為、日本橋に港屋を開店して、夢二式美人画が話題を呼んで、恩地孝四郎、浜本浩、東郷青児等若い才能溢れる人材が集った。

港屋開店の案内状には、夢二の次の句が掲載されていた。

ギヤマンの

船だ寿

秋の港可那

当時の日本には珍しい西洋ガラスも取り扱い、ハイカラな雰囲気を醸し出すことに成功した湊屋は、大いに繁盛した。

夢二の再婚が立ち消えになると夢二と縒りを戻すたまきだが「見せられない日記」のような情事は絶えず、二人の関係は悪化。港屋への夢二の情熱もいつしか薄れ、店の経営も傾いていく。

不憫なたまきと急速に接近したのが、東郷青児であり、二人の仲を疑って逆上した夢二による刃傷沙汰に発展する。

この事件に対する姿勢も文献1では、宿屋関係者等の証言から虚構若しくは未遂ではないかと疑問を呈しており、反対に文献2では、たまきの手記から事実であると断定しており、文献3では、曖昧な表現ながら、文学青年の一人、浜本浩による豊満なたまきに誘惑されたとの発言の他、単にたまきの寂しさを慰めてやっただけだと嘯いたとの東郷青児の証言や夢二の「小夜曲」の北越行の作品を紹介している。

越の海やここはふたりが死所

仇なれども手をとりてなく。

この件に関しても僕は判断材料を持ち合わせていない。

僕の場合、会社の不正を追及すること自体は悪くなかったと思う。上司は僕に暴力を振るわれたと主張したが、実際には逆上してロッカーを蹴ってしまったので、仕方がない。

離婚が正式に決まり、元妻の両親に父を伴ってお詫びに行った。その時、暴力の是非でなく、不正行為への対応に論点を摺り替えて僕の振る舞いを擁護してくれた父と、会社への忠誠心と家族、つまり彼にとっての娘である元妻のことを優先すべきと考えた元妻の父が決裂したことが悔やまれる。

 

たまきと東郷青児の関係も僕にとっては、どうでもいい話であり、当時、たまきと夢二は同棲していたものの離婚しており、不倫とは言えない。

また、複数女性との交際が同時進行していた中で、夢二にとって特別な女性になったのが、神近市子の証言によると因縁の東郷青児が連れてきた女学生笠井彦乃だった。

彦乃の父宗重は、日本橋本銀町(中央区日本橋)で宮内庁御用達の紙商店芙蓉社を営んでおり、彦乃は日本女子大付属女学校を中退した後、日本画を学んでいた。

彦乃は、夢二に自分の絵を見せて、評価を仰ぎ、夢二の進言によって、女子美術学校日本画科に編入学する。

父から夢二との交際を厳しく咎められていたので、彦乃のことをしのと呼び、手紙の遣り取りも夢二が山、彦乃が川であった。

二人の待ち合わせ場所は、ニコライ堂や一石橋であり、マリアがイエスを優しく抱く聖壁画が見下ろしており、夢二は彦乃に救いを求めていたのかもしれない。

刃傷沙汰を経て、奇妙な話だが、たまきとの関係も切れず、彦乃の家に乗り込み「わたしの良人のお嫁さんに娘さんを頂きたい」と言ったことが小説「出帆」に見られる。

『(前略)わたしは子供のためにいきてゆきますわ。あなたの芸術のためには、やっぱり吉野(彦乃)さんのような人が必要なんです。吉野さんを貰いましょうよ。(後略)三太郎(夢二)はとうとう京都へ逃げ出した。』

また、彦乃も父の反対で中々、逢瀬を重ねることが出来ないと愚図る夢二に対して、

『(前略)なぜさうきゝわけがないのです。(中略)でもそんなやけをおこしてはいけないでせう。ですから逢ってからどんなにでもいぢめて頂だい。ね、ほんとにききわけて下さいよ。今いってはあなたが一番おこまりになるんですよ。(中略)信じてまかして下さい。私のむねの中にあるんですから、こん度だめなら、そんないくぢなら死んぢまいます。ききわけてね。

川さま            やま』

実際のところ、三十四歳の中年男夢二に対して、弱冠二十二歳彦乃の手紙は年に似合わぬ包容力を持ち合わせており、猪突猛進の姉さん女房たまきとは対照的である。

 当時、与謝野晶子が「山の動く日来る」で有名な詩「そぞろごと」を書き、平塚らいてうが「原始女性は太陽であつた」と高らかに宣言した「青踏」の影響で女性は強くなっていた。

 夢二は女性に囲まれて育ち、母性本能を擽るコツだけでなく、強く女性を惹き付けて止まない感性を持っていた為、強い女性が牽引した空前の夢二ブームが花開いたのだろう。

 女性視点かつ耽美主義的傾向に該当する書籍が中々見当たらないのも、同性に対する嫉妬に起因していること及び社会運動から足を洗った夢二への批判と考えるのは邪推だろうか。

 

 夢二を取り巻く女性は数え切れないが、中心となるはずの三人の女性だけでも関係が重複しており、正確な時系列の把握と描写が難しい。

 例えば、先に挙げた刃傷沙汰も、夢二が彦乃と出会った後の話である。

 たまきが彦乃の父親に直談判したのも、芸術至上主義の献身であるか、起こるべき反応を予想した策略なのか意見が分かれる。

 実際問題として、彦乃と出会ってからも次男不二彦(通称、チコ)や三男草一(後、新派の女形河合家へ養子)が生まれているだけでなく、神楽坂芸者きく子の存在も見え隠れしている。

 

 夢二が京都に逃げ出した後、たまきが二人の子を置き去りにして蒸発したので、岡田三郎助の妻八千代が夢二と電報を遣り取りした結果、乳飲み子は養子に出されて、チコこと不二彦だけ、手紙を持って京都に送られてきた。

 この頃の夢二は、自分の狂気に恐れおののき、盛んに死ぬことを思い詰めて、遺書めいた手紙を送ったり、日記に認めたりしている。

 父子家庭の悲哀を味わいながら、夢二は彦乃に逢いに東京も訪ねており、父親の厳しい監視下にあっても、同情する人もあり、音信は続いていた。

 いとしさといぢらしさとを隔てつつ

 秤らむとする父を憎むな

 彦乃は父の目を盗んでは夢二との交流を続けて、脱出の折を見定めていたが、夢二は率直に心境を吐露している。

 『(前略)高台寺畔のかりの住居に、思ふはおしのがこと、おしのを待ちつつ住みわびし三年がほどは、げに憂きことしげかりき。(後略)』

 女子美術の女流作家栗山玉葉が取り計らい、彦乃は、日本画を修行する名目で京都にやって来ることになった。

 この年月求めしものをいまここに

 妹が眸のうちに見るかな

 たまきで形成されたモダンな夢二式美人であるが、彦乃との出会いによって腺病質的な趣が齎された。

 最初のキス

 五月に

 花は咲くけれど

 それは

去年の花ではない。

人は

いくたび恋しても

最初のキッスは

いちどきり。

チコこと次男不二彦は、実母を「たまきさん」とさん付けで呼んだが、「彦乃さんは、色の白い、きれいな人。何かおかあさん、という感じの。いつもそばにいたから(中略)なんとなく懐かしい感じなのね」と語った。

蒸し暑い京都の夏も制作に没頭する夢二は苦にもしなかったが、チコは病弱ですぐに腹痛を起こし、元々病弱な彦乃にも暑気は厳しかった。

それだけではなく、たまきは夢二が彦乃と結ばれた後もキリスト教に帰依して、矯風会の女史を伴って、彦乃を吊るし上げる一幕もあった。

彦乃の処女を守る名目で訪れた人々に「せっかくですがどうぞ構って下さいませんように。ほんとうの愛のためなら処女の操など問題にならないと思っています。でも、どうしてあなたがたははじめから私を処女だとおきめなのですか?だれにそんなことがわかりまして?」と逆襲したそうだ。

たまきは子供を捨てたが、彦乃は血縁関係のない不二彦を我が子のように愛して、疫痢になった折、昼夜を問わず必死に看病した。

僕の短い婚姻期間にも元妻が妊娠したが、六か月ギリギリで堕胎を決断して、手術当日も僕は立ち会わずに普段通り出勤した。

それしか選択肢がなかったと自分を欺いていたが、自分を中心に考えた結果であり、これからも十字架を背負い続けるだろう。

 

個展の開催に向けた制作の為、夢二は、夏から秋の間に彦乃とチコを伴って、加賀への旅に出ている。

夢二は旅の間に「水絵を十数枚、油の構図を若干、スケッチ帖を四五冊の収穫を得た。」と記している。

夏から初秋の粟津、金沢、湯涌温泉等を巡り、加賀の旅は、夢二にとって最も幸せなひと時となった。

野守らが朝のいらへをして過ぐる

女房ぶりもなれし頃かな

土地の人々と挨拶を交わす彦乃の新妻ぶりもすっかり板に付いてきて、ここ数年得られなかった安息の時間が、夢二の上にも漸く訪れた。

洋行を旗印に精力的に制作を続け、夢二は京都で、「草画」という形態上の主題から、「抒情画」という内容的な主題へと昇華させた。

 

残念ながら、細やかな幸せは長続きせず、関係を知った彦乃の父に強引に連れ戻され、以後、夢二のもとに舞い戻っては連れ戻されるを繰り返すことになった。

彦乃の父に連絡をしたのは、矯風会関係者若しくは当初、好意的であった協力者であるとも言われている。

だがそのような詮索は、必要ない話であり、元々腺病質である彦乃は、旅の疲れが重なったのか、体調を崩してしまう。

「竹久夢二抒情画展覧会」の成功で、洋行に向けて更なる資金集めに邁進していたが、彦乃の発病で叶わなかった。

夢二も寸暇を惜しんで、彦乃の傍らに侍りつつ、永遠の別れを意識しながら「赤ちゃんが欲しい」と語るいじらしさに泣いた。

ここはしも汝がとこしへの故郷ぞ

涙ぬぐひてふかく寄添へ

入院させられた彦乃を見舞いに行くと「重篤につき近親の外一歩も入るを許さず 院長」と貼り紙がしてあった。

『(前略)名を惜しんで下さい。彼等は彼等、私等は私等、交る時のない平行線で厶います。大切な大切なものを彼等のために費すのは惜う厶います。あたしは静かになれました。どうぞ心おきなうあなたのお仕事大切にして下さい。逢ひたいけれど・・・しの』

夢二はチコを連れて東京へ戻ることを決心して、彦乃も東京の順天堂医院に移送されて、結核との闘病生活に入った。

冬ながら銀座の柳芽をはりて

五月に似るとことづてにせむ

季節外れの芽吹きに夢二は、彦乃の健康が回復することだけでなく、二人の関係の復活を心に描いた。

同じ東京にありながら、彦乃と夢二は逢うことが出来なかった。

一年後の1920年(大正9年)、彦乃は二十五歳の短い人生を終えた。

その前に夢二が彦乃に面会出来たかどうかは不明である。

ある時は歓びなりき

ある時は悲しみなりき

いまは十字架。

元妻も学生時代に大病を患って、養生が第一であることは分かっていた筈なのに、僕は彼女だけでなく、二人に宿った大切な命さえ守ることが出来なかった。

 

『(前略)加賀の温泉にゐた時も、別府の海水浴へいった時もまた、京都で病気した時も、”浅草へ往うよ“とよくパゝにせがんだ。そんな時には、”あゝよし〱、今にね“と言ふと”いまにはいや、さあでなくちゃ“お前はさう言っては、パゝを困らせたが、今日こそさあ、浅草へ来たよ。三年振りだ。お前も嬉しいか。パゝも嬉しい。(後略)』

浅草で観音様をお参りしても、

寄添へよ。天下晴れての夫婦者、

人間のやうに遠慮をするな

自らの境遇に思い至り、心から楽しむことの出来ない夢二は、兎に角本郷菊坂富士ホテルに長期滞在することになった。

港屋の二階に屯して、夢二の周囲に集まっていた文学や画家を目指す若者は、東京に戻っても生きる気力を失った夢二のことを心配していた。

「第二の彦乃さん」を探そうと無言の合意があり、美校中退の久本DON(本名信男)が三番目の恋人と呼ばれるお葉、本名は佐々木カ子ヨを連れてきた。

『(前略)“夢さん。驚かないで下さい。奇跡ですね。彦乃さんがよみがえりましたよ”といった。(中略)“お葉さん、はいっておいでよ”呼ばれて、入って来た若い女を見た夢二の頬には、たちまち生気がみなぎって来た。(後略)』

若くして苦労の連続であるお葉は、敬愛する藤島武二のお気に入りのモデルであり、気遣いも出来て、所謂都合の良い女だった。

二十歳も年下の十七歳で「いいお嫁さん」になりたいお葉は、夢二の理想を満たした人形であったが、生身の女性にとっては残酷な話である。

文字から文章まで夢二に仕込まれた金釘流のたどたどしいお葉直筆の手紙が残る。

『(前略)パパのたべかけのカステラはたいへんおいしかった。おまんづうはみなつぶれてあってゐましたが、みなさんにわけて上げました。(中略)お葉はどんなにでもしんぼうちてをりますから御用のしむまでしづかにいらして下さいね。でもお用がしんだら一時も早く帰ってね。(後略)』

東北出身で「つ」と「ち」、「し」と「す」が混乱しているのが、素朴な女の真剣さが伝わってくる。

お葉を得ることで次々と新しい作品を仕上げていったが、着せ替え人形のように好みの女性に仕上げていくだけで正式な妻にはしない。

そのころ夢二は、短歌グループ「春草会」に所属して、短歌によって憂さ晴らしをしながら、理想郷である「少年山荘」の設計に没頭した。

 

お葉は夢二の種を授かり、可憐な新妻として健気に母になろうとしたが、幸か不幸か死産であった。

お葉が心中未遂事件を起こすと自分のことを棚に上げて、夢二は自分だけが知らなかったことを屈辱に感じた。

「和製ノラ」と言われた文学志望の人妻山田順子、「少年山荘」には様々な女が入れ代り立ち代り住み込んだ。

お葉はその後、何度かの結婚を経て、幸せな相手に巡り合う。

夢二は、頽廃の中で生活も荒んでいき、榛名美術研究所設立を目論むが、急転直下洋行に出掛ける。

残念ながら、当時アメリカもヨーロッパも不況のどん底にあり、絵画が売れる状況ではなく、落魄の末、無念の帰国であった。

失意は夢二の身体をも蝕んだ。結核での闘病。1934年(昭和9年)9月1日、徹夜の看護をしてくれる病院関係者に「ありがとう」の言葉を残して、満五十歳に半月少ない生涯を閉じた。

永すぎた春は実らぬまま、永い冬を過ごすことになった僕も一時の快楽を得る為、野放図な生活を繰り返した。

 

失意のどん底で生涯を終えた後、夢二が終焉を迎えた療養所に匿名の奉仕活動希望者が来訪した。

たまきであった。

夢二の生涯と比較して、僕は、只々馬齢を重ねるだけで、何の足跡も残していない。

 

明治、大正、昭和と夢二

夢二は1884年(明治17年)に生まれて、1934年(昭和9年)に亡くなったので、明治、大正、昭和の三時代を生きた。

それでは、夢二がどの時代に活躍したかと言えば、恐らく十中八九の人が大正時代と答えるだろう。

長かった明治及び昭和と比較するとあまりに短い大正は、近代史を軽視する学校教育では、どんな時代だったかさえも殆ど取り上げられない。

敢えて明治を支配した男性原理で説明すれば、男は泣くもんじゃない、文学や絵画よりも天下国家、富国強兵に一生を捧げるべきとされた時代。

秋山真之や及川古志郎等、多くの軍人が文学を愛しながら、断念しなければならなかったのは、時代の趨勢だったからだろう。

男性は建前で生きるが、女性は本音で生活をするので、与謝野晶子が反戦的だと槍玉に上がったのだ。

大正デモクラシー、大正ロマンの中心に感傷的過ぎる夢二が持て囃されたのであり、男性原理を体現する学習院長の乃木希典は、明治の終盤から盛り上がりかけた夢二人気に苦り切った。

また、夢二は「過去」と「未来」が交錯して、「東洋」と「西洋」の接点となり、「日本」を見詰めたので、多くの共感を得たのではないだろうか。

こがれ〱て唐船の

袖に湊の逢ふ夜は

袖に湊の夜ばかり。

はうろうすをれえらんす

さんたまりあ。

果たして、女性は弱い存在なのだろうか。

男性が自信をなくしていた戦後、見栄や誇りでは食っていけないと鼓舞したのは、女性でなかったか。

幸福がきたのをしらぬ

ばかでした

しあはせが

いつたもしらぬ

ばかでした

別れた宵にしりました。

「男が涙を見せていいのは、母と妻を亡くした時だ」父は口癖のように言っては、涙脆く女々しい僕を叱責した。

その度に母や姉妹は挙って僕の味方をしたので、父は癇癪を起して、外出してしまうのが常だった。

「外孫でなく、内孫の顔が見たい」母は古い質なので、話すが僕はその期待に応えられそうにない。

夢二の作品に耽溺したのも、姉妹との関係や必ずしも幸せとは言えなかった結婚生活など、自分と同じ要素を感じ取ったからかもしれない。

 

終章

夢二について読み、夢二について書く、夢二に憑りつかれたような日々。ある時、何気なく夢二の画集を眺めていると、子供の頃の記憶が唐突に湧き出してきた。母方の祖母の家。

当時祖母の家には、「こみのおばあちゃん」と呼ばれていた曾祖母がまだ健在だった。

数回しか訪れたこともない筈なのに、川で洗濯物をして、西瓜を冷やしていたことが印象的であった。

父の真似をして、鉈で薪割りを手伝い、五右衛門風呂に入ったことも新鮮且つ強烈に記憶に残っている。

ずっと気にしていなかったが、マラソン大会で優勝した姉に祖母が「人見絹江さんみたい」と褒めていた。

夜、枕元で急に「天勾践を空しうする莫れ。范蠡無きにしも非ず。」と祖母が語っていた。後にそれが、南北朝時代の武将児島高徳が自分の志を示し、捕らわれの後醍醐天皇を励ますために書いた詩歌だと知る。だが子供のころは、それが訳の分からない呪文のように聞こえた。

さくら神社にも連れて行って貰った。

そうだ、思い出した。

岡山県御津郡出身の人見絹江。

備前国児島郡林村出身の武将児島高徳。

岡山県津山市神戸にある作楽神社。

そして、岡山県真庭郡落合町古見(現、真庭市)にあった祖母の家。

全て、夢二が愛し、疎み、そして愛さざるを得なかったその故郷、吉備国とその景色ではないか。

 

こはふるさとか

こころのうちにくれがたの

かねのおとこそなりいづれ

いまはなき母への

あこがれの涙なりや

ながるるものは。

僕の中で、点が線に繋がった。

(やっと気が付いたか)

目を閉じると、普段は気難し気なのに、少しほころんでいるようなはにかんでいるような、夢二の顔が浮かぶ。

その表情は、会社を辞めて新たな一歩を踏み出そうとしている僕を、励ましてくれているかのようだった。

輝いていた昭和、バブル崩壊と阪神淡路大震災、東日本大震災等の苦難に満ちた平成という僕が生まれ生きた時代は、夢二にとっての明治、大正と相通じるものがあると思う。

僕にとって、令和はどのような時代になるのだろうか、瞼の裏に浮かぶ夢二に尋ねようと思うや否や、苦笑いのその顔がかき消されるように消えていった。

 

夢二愛し

吉備恋し

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