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CHOHACHI

序章

「伊豆の長八知ってるか」

 朝一番、電話を掛けてきた父は興奮気味に話して、相手の反応もお構いなしに、

「河津桜を見てから、帰ろうと思ったんやけれど、折角の機会やから、少し足伸ばして松崎町まで行ったんや、鏝絵って聞いたことあるか」

 矢継ぎ早に質問をされて、当惑していたので、

「今から出社するから、その話はまた」

 電話を切って、その話は忘却の彼方に追い払われた。

 

 その当時、僕は三鷹市に住んでいたので、散歩がてらに吉祥寺を逍遥していると『生誕200年記念 伊豆の長八 幕末・明治の空前絶後の鏝絵師展』が開催されていた。

 頭の片隅にあった伊豆の長八が思い起こされたので、迷わず入館すると父の興奮するのも無理はない。

そこには漆喰で製作された超絶技巧の数々が展覧されていた。

 

 早速、父に電話をすると、

「そうやろ、そうやろっ、今まで美術品も色々見せて貰ったけれど、伊豆の長八はそれとは根本的に違うんや、口で説明するのは難しいから、またお母さんと三人で松崎町にドライブに行こう」

「今回、色々見たからもういいわ」

 東京から近く、父の誘いにあまり魅力を感じなかったので断ると、

「違う、違うっ、美術館で見られるようなんとちゃうんや、鏝絵だけじゃないんや、街並みも含めての松崎町なんや」

 興奮気味にそう語る父。当時は、長期休暇を利用して親子三人で東北や九州、四国にドライブ旅行していたので、その延長で、松崎町へのドライブ旅行も安請け合いした。

 残念ながら、会社との関係が最悪となり、早期退職して、僕の身辺も穏やかではなくなった為、ドライブ旅行は順延となった。

その後、改めて松崎町へのドライブ旅行を計画したが、新型コロナの発生によって立ち消えに。

 しかしそれ以来、伊豆の長八こと入江長八のことが、何となく心に引っ掛かっていた。

 

 ある時、神保町のある古本屋を冷やかしていると、入江長八について書かれた本を何冊か見かけた。

 迷わず買い込んで貪り読むと、江戸末期から明治という激動の時代を生きた芸術家が醸し出す骨太の姿が立ち現れてきた。

不思議に思って何度も読み直すと、長八が険しい顔で「書け、書け」と僕の背中を後押しているような気さえした。

長八だけではなく、何時になく真剣だった父にも促されるように、その生涯を僕なりに描いてみようと思い立った。

 青年、成年、晩年と分けて描く心算だが、編年体でも紀伝体でもなく、帰納法でも演繹法でもないので、重複や時間軸が前後することを了承願いたい。

 

 天の時

 伊豆の長八こと入江長八は、文化12(1815年8月5日に西伊豆の松崎村(現松崎町)明地に生を受けた。

 父兵助は34歳、母てごは年齢不詳であるが、父より少し若かった筈だ。

父兵助は農家と言っても地主の土地を借りて米麦や藺草を作る小作農だったので、生活は苦しかった。

 文化という年号は後の文政と合わせて、化政年間と呼ばれて、華やかで享楽的な町人文化が開花した。

 同じ町人文化であっても、元禄年間の中心は上方であったが、化政年間に至って、江戸が漸く中心となった。

 黄表紙、滑稽本や俳諧、狂歌等の出版物と共に歌舞伎が流行して、浮世絵が人気を博しただけでなく、文人画や洋風画にまで裾野が拡がった。

 学問も江戸幕府公認の儒学だけでなく、国学、蘭学が花開いて、庶民にも教育熱が高まり、藩校、更には、寺子屋や私塾も雨後の筍のように創立された。

 

 長八は利発な子だったので、文政4(1821)年には、近所にある浄感寺の住職である正観上人が主催する私塾で読み書きを習い始めた。

 家が貧しいから寺の雑役をやる代わりに月謝を免除されていた若しくは親類であったからとも言われている。

その頃の仲間に土屋宗三郎(三余)や高柳福太郎(天城)と毛色の変わった石田馬之助(小沢雅楽之助)がいる。

文化15(1818)年には、英国船が浦賀に来航して、伊能忠敬が大日本海岸実測図の作成を開始しており、海外にも盛んに目が向けられた。

土屋は苦学の末、帰郷して三余塾を開き、後進の育成に心血を注いだ。

高柳は外国船の来航に際して、外国人と接触して、英語を学び、外交官として活躍したが早逝した。

石田は尊王攘夷運動に身を投じて、討幕を達成する間近に甲府で殺された。

幕末から明治にかけて、激動の中を三者三様に活躍したが、長八は正観上人が養子に望むことを嫌った父兵助の意向によって、文政9(1826)年に同村の棟梁である関仁助の内弟子となった。

開国か攘夷かと議論する友人を見て、羨ましくて眩しいという気持ちを抑えながら、日々の労働に没頭していた筈だ。

学問を継続して、江戸に遊学する友人を横目で見ているだけであり、多感な少年にとっては忸怩たる思いもあっただろう。

 

 そんな長八であったが、文政13(1830)年に親方の仁助に伴って、駿府(現静岡市)で土蔵造りの商家で壁塗りの仕事を経験した。

 駿府は今川氏や徳川家康に所縁を持ち、歴史がある町であり、文化の香りが漂っており、活気に充ち溢れていた。

 また、大動脈である東海道の宿場町でもあったので、東西の最新の文化や情報も集積されていた。

長八はその繁栄ぶりに魅了されて、寺社仏閣だけでなく、街並みの建築装飾に関心を持った。

 以降、暇さえあれば絵を描き、雛人形を作り、髪結いも行っていたが、中でも手先が器用な長八の凧絵は好評を得たようだ。

 更に、漆喰塗りの建物は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた火災による類焼を防止する為、人気が高まっていた。

 

 駿府で新しい空気に触れた長八は、自分の可能性を確かめたくて、懊悩し続けていた。

 学問を継続した友人達が、自分の進むべき道を見付けて、邁進していく中で一人取り残される悲哀を感じていた。

 毎年のように大火や水害が発生しており、農村は疲弊していたが、相次ぐ外国船の来航やシーボルト事件等、正に内憂外患で江戸幕府の威信が低下していた。

 獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言われており、野菜や果物も過酷な条件である方が美味になる。

 若い時代の苦労こそが、長八を成長させた原動力であるが、郷里の松崎村では、職人として生きるのか画業を志すのか、悶々とした気分を味わった筈だ。

 

 個人的な意見ではあるが、八代将軍吉宗の享保の改革を経た後、田沼意次及び意知親子が活躍した所謂田沼時代は、学校で教える日本史では評判が悪い。

しかし、印旛沼の開拓、蝦夷地の直接統治等を通して、極端な農本主義から重商主義へ移行を図ることは、日本では珍しく外圧ではなく、国内からの変革として評価されるべきだ。

時は違えど、何れも大なり小なり権現様(徳川家康)の政治へ回帰することを訴えた三大改革、即ち享保の改革寛政の改革及び天保の改革の方が、閉塞した現状を維持する消極的な政策だったと言えよう。

当時の人間にとっては、当たり前であったが、長八も苦しんだと思われる士農工商と呼ばれた身分制度が、成長を阻害する最大の要因だ。

一方で、江戸末期には寒冷期に入っていた為、農村が極端に疲弊していたことも、幕府及び武士社会の威信を弱め続けていたが、それに対応して幕府が締め付けを強化していた面もあったに違いない。

その点では、大正及び昭和初期と重なると思う。

 

 地の利

 長八の故郷である西伊豆松崎村は、約六割が山林であり、中心部に流れる那賀川と岩科川流域に西伊豆では最大の平野部を持つものの、他の地域と比べれば農地に適した平野は狭く、農業だけで食べていくのは困難であった。

 病弱であった父兵助は地主の手伝い仕事を引き受けて、松崎村で生計を立てていたが、江戸の大工や左官等の数多くが伊豆出身の出稼ぎ労働者であった。

 漆喰塗りの建物は、火災による類焼を防止する為、俄に需要が増加していたが、海風対策として、伊豆の商家では早くから採用されていた。

 

 年号は文政から天保に変わっても世の中は混迷の一途であり、天保3(1832)年に発生した天保大飢饉の影響で、江戸では、義賊鼠小僧治郎吉が庶民の味方と持て囃されていた。

 松崎村も大きな被害を被ったが、領主である旗本は既に破綻しており農民の被害になす術もなかった。

父兵助の地主でもある名主の依田善六が、蔵から古米を農民に分け与えたものの、焼け石に水であった。

 伊豆半島は太平洋に面している為、海外事情への関心も高く、前述の高柳天城は開国やむなしと考えたのに対して、小沢雅楽之助は頑なに攘夷を主張した。

江戸で苦学した結果、土屋三余はどちらにも与せず、農耕と学問を結び付けた実践主義で後進の育成を選択したと思う。

何れにしても、松崎村の正観上人の私塾に長八も含めて、時代を反映した四人が席を並べていた事実には驚くしかない。

 

 路銀に余裕のない長八は、海路ではなく、陸路で天保4(1833)年に江戸に向かった筈だ。

 江戸への出奔の理由に関しては、恋愛、同業の妬み等と諸説あるが、土屋の遊学後、高柳と石田とは、一線を画して、自分の可能性を確認したかったと思う。

 化政年間になって、商品及び貨幣の流通が全国的に拡大しており、経済の中心が上方から江戸に変化したことも長八には幸いであった。

 何と言っても、耕作地が少なく、江戸への出稼ぎが多く、地理的にも左程遠くなかったことが最大の要因だろう。

 左官の腕には自信があったが、天保大飢饉の傷跡は予想以上に大きく、各地で一揆が発生しており、江戸でも打ち壊し騒動が度々起きていた。

 転機が訪れたのは、天保5(1834)年に発生した大火であり、大火復興の人手不足によって、長八は中橋に住む波江野亀次郎の下で左官職人となった。

 

 復興の日々を終えた天保6(1835)年に長八は、川越に住む喜多武清の下で絵画修行を始めた。

 当初、江戸随一の谷文晁に弟子入りを申し込んだが、高齢の為に高弟の喜多武清を代わりに紹介された。

 約三年間、住み込みで絵画に打ち込んだ長八だったが、天保9(1838)年に父兵助が亡くなった為、松崎村に戻ると絵画修行を放棄して、得意の新内節で旅芸人の一座に加わっている。

 この経緯については、将来を誓った女性の変心で説明されているが、個人的には寺社仏閣にある装飾としての鏝絵と個人所有物である絵画の差異、芸術に対しての限界を感じたのだと思う。

 浅薄な知識であるが、長八作品集等を確認すると寺社仏閣若しくは商家等の建築物、仏像等が鏝絵若しくは漆喰なのに対して、個人的に贈った絵画が存在している。

 勿論、家族や女性問題の影響も多少はあったと思われるが、江戸から明治の激動を生き抜いた長八なので、個人の問題で矮小化したくない気持ちが強い。

 百姓の子であり、窮乏する地方で頻発する一揆や打ち壊し等の悲惨な状況も耳にしており、それらの事象に対して、無力な自分の存在にも迷っていたかもしれない。

勿論、鏝絵と絵画の甲乙を論じるのではなく、駿府で受けた衝撃を考えると本人にしか分からない溝が生じたと考えるのであり、絵画修行は後の作品に必要な期間であった。

 更に言えば、絵画だけではなく、漢詩等の文人としての素養を学んだことが、後になって幅広い交友関係を持った長八の原点だっただろう。

 

 自暴自棄になって、旅芸人の一座と行動を共にしていた長八だったが、天保11年(1840)年の年末に三島に巡業中、松崎村出身で「さとり(物知り、知恵者)さん」と呼ばれる須田茂平に諭された結果、左官の世界に戻る。

 須田茂平は長八よりも七歳年長であり、三島の竜沢寺に若くから参禅している篤志家であり、以降昵懇となった。

 天保12(1841)年の年明け早々、大火で燃えたままであった日本橋茅場町の薬師堂を再建する際に重要な欄間の『花文』と御拝柱の『上り龍』と『下り龍』を任された。

 残念ながら薬師堂は、明治18(1885)年の日本橋火災によって、焼失して現在は残っていない。

 創意工夫の末、手製で作り上げた「柳葉」と名付けた繊細な鏝を駆使して、丁寧に仕上げていた最中、郷里の親方であった関仁助の訃報が齎された。

 今回の仕事に再起を賭けていた長八は、帰郷せずにいたが、父兵助を亡くして気弱となった母てごの訪問を受けた。

 てごはこれを機に長八の帰郷を望んでいた節があり、そのことを長八にも諄々と説いたに違いないだろう。

 だが、結果的に親思いの長八にしては珍しく、てごの懇願を受け入れて、帰郷することはなかった。

 乗船出来る沼津まで母を送り届けるのではなく、三島で須田茂平に後事を託して、出来るだけ早急に職場復帰して仕上げた結果、伊豆長八の名声を高めた。

 長八の帰郷を断念させた人物として、郷里の先輩であり、「さとりさん」と呼ばれた篤志家須田の存在は不可欠に思う。

 伝説として残っている記述は、大岡越前忠相の大岡政談の殆どが大岡忠相に関係ないという故事を勘案して、出来るだけ排除したが、後々の関係を考慮して、不可欠だと判断して紹介することとする。

 恐らく須田は、松崎村の一職人で終わるのではなく、後に「伊豆の長八」と呼ばれる存在になるであろう絶好の機会であることを母てごに告げて、長八の帰郷を断念させたのだろう。

 実際にこれ以降の長八は鏝への創意工夫だけでなく、漆喰着色の研究にも精力的に取り組み、追い求めていた自分だけの鏝絵を完成させていく。

 母の希望であった筈の帰郷を断念した長八の感情は、複雑であったに違いない。

 母親への情は勿論あったが、それだけでなく、未来への不安もあった筈だ。

 しかし、それ以上に強かったのが、芸術への意欲と野心だったのではないだろうか。

 

 私情を挟んで恐縮であるが、銀行員で多忙だった父との思い出は殆どない代わりに母はどんな時でも僕の味方であった。

 また、社内の不正を告発した結果、パワハラと左遷により、25年間勤務した証券会社の早期退職を余儀なくされた。

しかし、自分の経験や感じたことを文章に書けば、きっと多くの人に読んで貰える筈だという気持ちもあり、作家を目指すことに決めた。

 

長八の生涯を追っていると、母親への思慕と野心が、何処かしら僕自身の人生に重なってくるような気がした。

長八は、才能だけでなく、弛まぬ努力の時勢によって、「伊豆の長八」として、作品と名声を後世に残すことに成功した。

残念ながら僕の場合、新人賞への応募を続けているものの、現実は落選に次ぐ落選。

名声からは程遠く、燻ったままでいるのが辛い。

 

長八を巡る時代の流れに話を戻そう。

水野忠邦による天保の改革と呼ばれる嵐によって、諸事に質素倹約が求められた為、市民生活は圧迫されて、町人文化は衰退した。

国内事情優先であり、相次ぐ外国船に打ち払い令を出しても、外国船を打ち払う為の船舶の整備は進まず、かといって鎖国に縛られて外国との交渉もままならない中、朝令暮改で停滞した。

水野忠邦が老中を退任して、改元されて弘化となり、弘化2(1846)年に長八は郷里の恩師正観上人から浄感寺の本堂再建への協力を求められた。

教え子の帰郷を喜び、母てごも故郷に錦を飾った息子を喜んだが、正観上人は完成を見る前に亡くなった。

正観上人の葬儀等で多忙な日々の中、長八は亡き恩師の追慕冥福を祈り、精魂を込めて『正観上人肖像画』を描き上げた。

長八は天井に大作『雲龍』襖に『龍』を肉筆の墨絵で書くだけでなく、正面欄間に漆喰絵『飛天』を完成させた。

浄感寺に残る工事関係者の名前を記録した棟札には、「左官」ではなく「彩色」入江長八とあり、本人が絵師として主張したものと思う。

これらの作品群は浄土真宗本願寺派華水山浄感寺の長八記念館として、拝見することが可能である。

この帰郷を兼ねた仕事が、思いの外長引いた為、最初の妻であるおきんが長八の元を去った。

 

 波江野亀次郎と親密な関係にあった深川の名門である播磨屋の源次郎から請われて、息女おたきと婚姻して、養子となったことで、独立して付き合いの幅も広がった。

 一方で、名門播磨屋の十代目として、相次ぐ外国船や災害の為、世話人として多忙であり、この頃の作品は数少ない。

また、深くは触れる心算はないが、おたきとの間に子宝が恵まれなかったので、名門播磨屋の養子問題でも悩みは尽きなかった。

 試作段階であった為若しくは寺社仏閣の復興に参加していた為、関東大震災及び東京大空襲の結果、散逸した影響も大きい筈だ。

 実際、長八の作品が残っているのは、東京では品川及び北千住の寺社仏閣及び個人蔵以外には殆どない。

 

 嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船の来航で、世間の話題は黒船一色であったが、寄港していたロシアのプチャーチンの船が小田原地震によって下田沖で大破した為、戸田村(現沼津市)で日露共同作業の「ヘダ号」を建造した。

 長八は世間の騒ぎに耳を貸さず、只管自分の仕事である鏝絵の完成に注力しており、額装の小品制作に没頭していた。

 母てごが亡くなった際、帰郷して世話になった人々に小品を贈った為、これらの作品も松崎町には残っている。

 天変地異の発生に目まぐるしく改元された安政2(1855)年、安政江戸地震によって、江戸市中の大半が焼失した。

 安政3(1866)年、復興もままならない中、江戸で有数の大寺目黒祐天寺から長八に大修理の依頼があった。

 郷里である松崎村には寺が二つあった。

一つは長八が子供の頃に私塾に通った正観上人の浄感寺。

もう一つが浄泉寺であり、こちらの方が格式も高かった。

祐興上人は、浄泉寺住職を経た後、高い学識と人徳を評価されて、祐天寺第五十三世となっていた。

その為、松崎村の浄泉寺時代の縁もあり、長八のこともよく覚えていたようである。

 茅場薬師や浄感寺での長八の並外れた実力も知っており、祐天寺の工事も評価の高い松崎村の大工や左官に依頼することが多く、長八にも声が掛かったのだろう。

 祐天寺の修復は、長八にとって画期的な事であっただろうが、残念ながら明治27(1894)年の火災で焼失してしまって不明である。

これ以降、長八が「天祐」と署名を始めており、宗教的精神が芸術でも私生活でも色濃く反映された。

 

 その後、左官仲間が奉納した成田山新勝寺への奉納額に、趣向を凝らした『塗額』を長八が作成した機縁で、成田不動の修理を請け負うことになった。

精進潔斎、参篭絶食、水垢離をした経験から、仕事場の入口には「無用の者入るべからず」と掲示して、内部に注連縄を張るようになった。

喜多武清が亡くなった為、安政4(1867)年、追善供養として川越喜多院に『天海僧正像』を奉納した。

江戸幕府が瓦解していく中、長八が何をしていたかは伝説としてしか残っていないが、幸いなことに郷里である松崎村周辺には、長八作品が残されている。

播磨屋十代として、多忙な日々であったことは疑いないが、詳細は分からない。

当時のものと思われる、残された相撲甚句だけ紹介する。

東に回れば 陣幕で

西に回れば 境川

今をとりもつ お関取

仲をとりもつ 左官長八

郷里の恩恵を受けて、数多くの大きな仕事を任されるようになった長八が、幕末明治の混乱を超えて、更なる活躍をしていく。

 

人の和

明治維新後、欧米一辺倒若しくは模倣で国民生活を無視する傾向があり、欧米派と国粋派が顕著であった。

激動の幕末から明治にかけて、長八は養父の源次郎と最愛の妻であるおたきを亡くしており、髪を落として僧形になった。

その後、三度目の妻であるおはなと一緒になるが、苦労人で金銭に厳しいおはなと養子や職人との確執は長八の悩みの種となった。

極端な国粋派ではないが、長八は日本固有の伝統を大切と考えて、守って行く為に色々なところに顔を出した。

ここでも明治5(1872)年若しくは6(1873)年発行と推定される豊原国周の錦絵と共に「東京無双当以長揃」では、「鏝絵、左官長八、前代未聞のわざ」と紹介されている。

また、高村光雲の思い出話として、浅草奥山で長八の『魚尽し』の塗り衝立を見た印象を「その図取りといい、鏝先の働きなどが巧みで、私はそこでいかにも長八が名人であることを知った」と記している。

 

明治10(1877)年、内国博覧会に『望富岳於伊豆之奈島図』で長八は褒章を受けたが、講評の「但シ、浮起ノ法、欧州ニ倣ウアラバ更ニ佳妙ニ至ルベシ」に憤慨して、以降参加していない。

しかし、ここで長八は、幕末における江戸無血開城の立役者である山岡鉄舟と出会い、須田茂平の話題を通じて、三島竜沢寺の星定禅師に『不動明王像』を作成したいと紹介状を依頼した。

百日参籠の末、『不動明王、二童子像』を制作の為、居士号を受けて、それ以降は「天祐居士」を名乗っている。

ここで制作した作品も三島竜沢寺にそのまま保管されており、長八の鏝絵を始めてから様々な技法が余すところなく鑑賞出来る。

清水鉄舟寺では、『水月観音像』を作成しており、鉄舟を介して、嘗ての侠客で社会事業を起こした清水の次郎長こと山本長五郎の依頼によって、『山岡鉄舟座像』も制作して、邂逅している。

長八は常々、目に見える文明開化には、大切な物が足りないと感じていたようで、参考文献にも頻りに、「芸術に対しても技ではなく、人間であり、鏝ではなく、心だと感じていたが、政治もまたしかり」と思っていた。

還暦を超えても壮健であり、建物関係で『三島学校』、『岩科小学校』及び『旧岩科村役場』工事に従事した。

更に、『土蔵相模』、『今戸別荘』、『参謀本部』工事にも関与する八面六臂の活躍をしただけでなく、養父の遺志を継いで、浅草正定寺の改築にも奔走したが、これらも残念ながら焼失して、残っていない。

それ以外にも『星定禅師像』、『天野屋利平像』、『聖徳太子像』等の古い日本を代表する人物や『舞鶴図』、『寒牡丹図』、『十六羅漢図』、『三保松原』図等の日本古来の美しさを強調する作品を残した。

明治22(1889)年10月8日永眠。

遺骸は予定通り浅草正定寺に葬られて、遺言通り分骨されて、郷里の浄感寺にも埋葬されている。

 

名人と呼ばれた伊豆長八が、それ以降の左官に大きな影響を与えたことは疑いの余地がない。

明治初年から中期にかけて、鏝細工の五人男と言われた今泉善吉、江口庄太郎、天神の梅、靴屋の亀、芝の市であり、このうち今泉善吉は長八の門人だった。

弟子の入江又兵衛の話として、「当時は東京のあらゆる左官が皆長八の弟分であった」と記している。

長八の直接の門弟以外にも長八に左官技術の全てを習った者(弟子)と、技術の一部を習った者(弟分)に分かれる。

その他、近代以降の日本各地に漆喰細工、擬洋風建築、西洋建築が作られており、それらに関わった左官にも「伊豆長八の流れを汲む」という言い方をすることが多い。

長八から実際に指導を受けた者、現場で共に仕事をした者、直接接点はないが影響を受けた者等と様々な関係を総称している。

それらの立場で晩年には組合の講習会等で後進の育成に貢献しており、伊豆長八とその門弟達が果たした役割は極めて大きい。

 

ここで長八と浄感寺で共に学んだ土屋三余と門人且つ甥であり、中川村(現松崎町)の三聖人と慕われる依田佐二平、依田勉三兄弟にも触れる。

土屋三余は諸侯の招聘を辞して、地元に戻り依田家(父兵助の地主である依田善六の本家)の娘と結婚して、竹裡塾(後に三余塾)を創立して、教育に従事した。

開国と攘夷に議論が分かれる中で、それらとは距離を置いて、後進への教育に心血を注いだ。

土屋三余の人となりが最も現れている竹裡塾を創立した時の開塾の信条をここに全文記載する。

開塾の信条

人の天分に上下の差はない。士が尊く農民が賤しい断りはない、ただ現在の境遇に優劣あるのは教育の有無によるのだ。

人は天分を全うするために職業を持たねばならぬ。

士農の境界を撤去するには業間の三余を以って子弟を教育しその器を大成させ武士に対抗させることだ。

 

兄の依田佐二平は、黒船も土屋三余と一緒に見物に行っており、名主、区長、県議や郡長を歴任した後、衆議院議員、産業の分野では生糸製造同業組合長、沼津―東京間を結ぶ松崎汽船会社も開業した。

弟の依田勉三は、スコットランド人のヒュー・ワデルの英学塾、慶應義塾(病の為に中退)に学び、私立豆陽学校(現静岡県立下田北高等学校)を設立して、晩成社の発起人として単身北海道に渡り、「十勝開拓の父」と呼ばれる。

 

その後、建設技法の近代化を受けて、漆喰技術及び左官の需要も衰微の一途を辿っていたが、画期的な事業が立ち上がった。

西伊豆、人口一万人弱の松崎町に、昭和59(1984)年の夏、白亜の『伊豆の長八美術館』が出来た。

 開館時の説明文を引用すると、江戸から明治にかけて、日本一の左官、鏝の名人と呼ばれた入江長八の漆喰鏝絵等の作品七十点余りを集めた美術館(設計:石山修武、施工:竹中工務店)である。

当時、三十代で駆け出しだった建築家であった石山修武が月刊誌「左官教室」でぶち上げた「江戸と現代を結ぶ」計画及び全国津々浦々の左官職人を参加させる壮大な企画に飛び付いたのが、当時の町長であった依田敬一だ。

町議会で設計者選定の理由を問われた際には、

「設計は本当に情熱を持つ人間がやりたいと言うなら、その人間を信じて任せるのが一番良いのだ」言い放った。

 

この美術館の建設に当って、協力を要請されたのが、社団法人日本左官業組合連合会(日左連)だった。

「ヨオシ、お若いの金も人も集めてヤル。私も長八さんにはひとかたならぬ世話になった。先祖のお思ってやってみよう」損得勘定抜きの心意気を見せた。

当時の会長であった杉山三郎は、全面協力を決定して、資金を集める一方で、現代日本の左官として第一級の人達を、松崎の現場へ送り込んで、左官工事を送り込んだ。

「但し、左官のコトは左官に任せるのが条件だ。アンタは図だけ描けばイイ。実際のコトはこっちに任せろ」条件はただ一つだけだった。

 工法の変化、建設業界の不況、併せて伝統技能の後継者難で左官業界にも厳しい風が吹いている最中、日左連会員二万人、全国左官職三十万人の心を動かして『長八美術館』建設に向かわせたものは、一体何だったのか。

 

 技術伝承、経済波及効果、景観整備の「一石三鳥」を狙って松崎町は、平成6(1994)年から平成13(2001)年まで「なまこ壁技術伝承事業」の第一弾に挑戦している。

『長八美術館』及びなまこ壁のある街並みの成功は、一朝一夕で出来たものではなかった。

観光行政に携わった当時の松崎町町長公室の森秀己室長による、「松崎町になまこ壁が残ったのは、西海岸に鉄道が通らず、過度に開発されなかった“幸運”があったからだ」との言葉の通り、町民にとっては単なる「昔からあるもの」に過ぎなかった。

 それと同じように長八作品がまだ評価されていない時代から散逸させない為、食糧難の終戦直後も作品を蒐集し続けた「長八作品保存会」の会長であった依田薫等の存在があった。

 「町の観光資源として役立つ」信念を持って予見して、作品を精力的に集めて、本人所蔵の作品を中心に「郷土が生んだ左官の名工、伊豆長八翁作品美術展」を開催した。

 長八と馴染みの深い浄感寺に「長八記念館」を設立させて、個人が保有する長八作品の常設展示の道を開いた。

 これら先人の並々ならぬ情熱が結晶として形になったのが、『長八美術館』を中心とした町並みであり、職人とその仕事を大切にする価値観の発信源となった。

 一度は顧みられなくなり、職人技が必要とされる漆喰が、アスベストやシックハウス症候群の恐怖から、再度見直されている。

 平八が感じ取った文明開化への違和感が現代に突如現れたように感じるのは僕だけではないだろう。

 これを機に「伊豆の長八」が「世界のCHOHACHI」となって、超絶技巧が忘れ去られることなく、世界中に知られて欲しいと願う。

 

 終章

 兵庫県の田舎で育った僕は大自然に囲まれて育った。母から聞いた話では大阪府で生まれたが体が弱かったので、郊外に引っ越すことを決めたらしい。

 父以外の家族にとって、素晴らしい選択であったが、その代償に父だけ通勤時間が長くなってしまった。

 趣味らしい趣味を持たなかった父は退職後に建設工事を見て、暇があれば職人さんと話をしていたらしい。

 考えてみれば、仕事の迷惑であったに違いないが、母が目を離すと父は工事現場に見に行ってしまう。

「お父さん、工事現場の見学が好きで、出て言ったら一日中見ているのよ」

「そんなん、あかんやろ、すぐに止めさせないと怒られるで」

 母から聞いた話だが、父は田園風景が広がる僕の郷里が都会に感じるくらい辺鄙な滋賀県の琵琶湖近くに父は育ち、農家の次男坊だったので、左官屋への養子の話もあったらしい。

 思い起こせば、まだパソコンやプリンターがなかった頃、父は多忙な日々なのに年賀状用版画を自ら作成していた。

 深夜に目を覚まして、トイレに行った時、電気を付けて一心不乱に彫刻刀を握っていた父が、

 「明日も学校に行かなあかんから、早く寝ろ」作業の邪魔をせず、素直に床に入った。

 

 田舎で生活の一部に自動車が欠かせなかったので、高齢者運転が問題になり、両親は公共交通機関が便利な大阪府に引っ越すことになった。

 国立循環器病研究センターの工事が近所だったので、当初は父も見学に行っていたらしいが、不意に行かなくなった。

「関西生コンの連中が工事進行の邪魔してるの見てたら胸糞悪くなってまうから、もう行かん」

 父は大切な物を汚されたように感じたのだろうか、工期終了まで絶対に見に行こうとしなかったらしい。

 取材を兼ねて、松崎町、品川、北千住等に行こうかとも考えてみたが、宙ぶらりんになっていたドライブ旅行の約束を果たす為、改めて、父と母と一緒に松崎町を訪れることを楽しみとして取っておくことにした。

 

繰り返しになって申し訳ないが、銀行員で多忙であった父も毎年夏になると南紀白浜に連れて行ってくれたことを思い出す。

 少し荒い運転で決して上手ではなかったが、父は運転が好きだった。

 親子三人のドライブも一車線や難所がある区間は父が率先して、ハンドルを握ってくれた。

 そんな父も姉と妹による再三再四の忠告や高齢者運転に対する世間の厳しい反応を考慮して、運転免許証を返上した。

 僕は父のことをあれこれ言う資格はなく、大学では体育会自動車部に所属したが、諸事情によって運転は下手だ。

それでも、父があれだけ強く推奨した松崎町だけは、僕がハンドルを握って、父と母と僕の三人で一緒に訪れたいと思う。

 

参考文献

「伊豆長八」結城素明 芸艸堂

「圬工伝―左官の名人 入江長八の生涯―」 須田昌平 文寿堂印刷所

「土の絵師伊豆長八の世界」村山道宣編 木蓮社

「伊豆長八作品集」清水真澄他編 松崎町振興公社

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