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寄稿 『追悼・今村昌平監督』 後篇 初出:映画藝術 417号

能書き:私自身も久し振りに前篇として投稿した自分の文章を読み、あの時代、1980年代初頭の「第二期日本映画黄金期」に暫し想いを馳せてしまいました。

今村監督は1979年に『復讐するは我にあり』で8年振りのブランクをモノともせず大復活し、私も就いた『ええじゃないか』を終え、東映と提携して念願の『楢山節考』に挑む直前でした。そこへ、相米慎二監督に預けていた愛弟子である森安健雄さんの失踪事件が・・・。では「後篇」を。

追悼 『今村昌平 森安建雄 二人の恩師との永訣。』後篇
                        映画監督 細野辰興

失踪直前の「セーラー服と機関銃」での森安さんのチーフ助監督振りは、未だに語り継がれるほどの素晴らしさで、森安さんも普段にも増して活き活きとしており、語り草となるほど自由で若さ溢れる素敵な現場となった。勿論、相米さん、伊地智啓プロデューサーの人間性もあったが、最高殊勲選手は森安さんだった。後にゴジさんに確認すると「太陽を盗んだ男」でも森安さんの働きは正に感動もので、立場は一番下のフィフス助監督だったが三賞独占の働きぶりだったということだ。助監督の経歴だけは長いが、監督に何ら感動を与えない、つまり作品の内容に何も貢献しない只の段取り屋に成り下がった唾棄すべき職業助監督と偶に遭遇するが、森安さんは正に真逆の助監督だったのだ。 
大学を卒業して今村プロに入ったものの、数年間はドラマ制作には携われなかった森安さんも、「飢餓海峡」の浦山桐郎組、「復讐するは我にあり」「ええじゃないか」の今村昌平組、「太陽を盗んだ男」の長谷川和彦組を体験し、助監督として自信がつき始めた時期だったはずだ。そして、念願の、初めてのチーフ助監督が同い歳の相米さんの「セーラー服と機関銃」だったのだ。
今村組、相米組、両方での森安さんを知っている私が、失踪の理由について私なりの推論を出すことはあまり難しいことではなかった。しかし、所詮、推論は推論だ。云えることは、森安さんにとって後にも先にも、間違いなく人生最大の決断だったに違いないと云うことだ。
結局、森安さんは今村プロに戻らなかった。一年間、禊をして翌年、根岸吉太郎監督の「俺っちのウェディング」のチーフ助監督で現場復帰した。
それから三・四年経ったのだろうか、森安さんから「今村監督に会いに行くけど一緒に行かないか? 」と電話を貰った。今村監督は、「女衒」のクランクイン直前だったと記憶するが、「ええじゃないか」のアメリカ人助監督、ロバート・トランチンが来日しての歓迎会のような酒席に二人で出かけて行った。勿論、あの事件以来、今村監督と森安さんが会うのは初めてで、今村組のスタッフや役者の誰かが二人の仲を残念に想い、気を利かして設けてくれた場だったような気がする。(私は、「魚影の群れ」で森安さんと邂逅した緒形拳さんの口利きだったと勝手に思っているが。)
今村監督としては、理由も云わず勝手に家出した親不孝息子だが、覚悟して自分が選んだ道で頑張っていると人伝に聞き、やっと会う気になった、と云うことではなかったのだろうか。
しかし、二人だけで話していたような記憶もなく、付き人としては何となく肩透かしを喰った感じもしたが、シャイな、しかも既に別の道を歩き出してしまった二人の再会としてはそう云うことだったのだろうな、と今の私には得心がいく。
その後、御二人に再び会う機会があったのかどうか、私は知らない。私も、あの時、今村監督に森安さんのことを知らせなかった負い目もあったのか、次第に今村プロから足遠くなっていった。
とは云っても、数年後の平成二年、私は、母校である日本映画学校に講師として呼ばれ、今村監督と年に数回顔を合わせる機会を持てるようになった。特に、私の監督二作目の「しのいだれ」を観た今村監督が電話をかけてきて下さってからは、私の咽喉の痞えもとれ、森安さんの近況をなるべくお伝えするようにした。「ポップコーン・ラブ」で劇場公開映画を監督したこと、初めて自分から出た企画「ジョゼと虎と魚たち」の脚本を創っていることもお伝えしたと思う。
「うなぎ」で今村監督が二度目のカンヌ・グランプリを受賞された平成九年前後から森安さんの糖尿病は酷くなっていったようだが、敢えてお耳には入れなかった。私も丁度、「シャブ極道」から「竜二Forever」にかけての時期に当り、森安さんと少し疎遠になり始めていたこともあった。
そして更に歳月は流れ、今年の五月三十日、私は、今村監督の訃報を森安さんに電話で知らせることになってしまったのだ。森安さんの病状が悪化していたのも知っていたので、葬儀への参列を憂慮したが、
「行く。俺、今村さんの葬儀には出たいんだ。」
との返事だった。
 今村監督の通夜の日、一年振りに会った森安さんの容態は更に悪くなっているのが歴然で、愕然とした。そして、四ヵ月後の十月一日、森安さんは、今村監督の後を追うように静かに息を引き取った。腹水の原因は、結核と大腸癌だったとのことだった。
今村昌平と森安建雄。この二人の恩師の関係を考える時、私は、人間・今村昌平の「父権の強さ」と「愛」と云う言葉が頭を過ぎってしまう。亦、私の知る限り映画界最高最大のアイドルだった森安建雄と云う人の「誠実さ」と「野心」と云う言葉が頭を過ぎってしまう。
やはり人間は、不条理なものなのだ。

横浜放送映画専門学院を卒業したばかりの私を「ええじゃないか」に就けて下さり、徹底的に鍛えて下さった今村監督。その現場で出逢い、後に相米組、根岸組に連れて行ってくれた森安さん。
御二人は、私にとって紛れもなく恩師だ。
今村監督にはドラマの本質を教えて頂き、「シャブ極道」後には「細野。お前は生涯、莫迦を描け。」との言葉まで頂いた。
森安さんには、私心を捨てて監督と作品に貢献する助監督としての姿勢を叩き込まれた。
今村監督への追悼は、映画芸術の尽力で少しは出来たかもしれないが、森安さんに対するインタビューは未だ残ったままなのだ。失踪に関しての私の推論は当っているのか? 否、森安さんに訊きたいのはそれだけではないのだ・・・。森安建雄亡き今、それをどうやって実現すれば良いと云うのだろうか。
否、調査魔の今村監督のことだ、邂逅したのを先途と森安さんの首根っこを摑んで徹底的に訊き出しているに違いない。森安さんも昔に戻って、面白おかしく告白しているに決まっている。
しかし、その顛末を御二人から教えて頂くことは、もう出来ないのだ。


後書き:「後書き」を書いて纏めようと思っていましたが蛇足だと判りました。只、年齢のせいか、読んでいる途中から涙が止まらなくなり困りました。自分の書いた文章を読んで涙を流すなど莫迦じゃないかと思うのですが。正直に告白して後書きに代えさせて頂きます。

蛇足:今村昌平監督には精神主義から来る「逆転の発想」のユニークさが有り、「映画製作」は言わずもがな「生きて行く上」でも「へェ~!? 」と云うエピソード満載で抱腹絶倒でした。8年ほど前に川崎市に依頼され「今村昌平監督の作品と人」と云う御題でそのユニークさを連続4回で公演させて頂いて以来、色々な処で話したり書いたりさせて貰っております。それらも何れ御紹介出来ればと思います。




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