[SS]宙にクリオネ

 見上げた海に、悠然と泳ぐクジラ。
 日の光は今やあまりにも遠く、ささやかだ。
 スクラップにされた機械たちの山の上。現状だと、この世界でもっともソラに近い場所。
 その天辺に佇むひとつの人影は、悪気なく視界を塞ぐクジラの向こうに、一昨日や五日前と同じように、かつてのささやかな思い出を探していた。
「⋯⋯今日も、見えないや」
 彼らのあまりに利己的な生命活動は留まることを知らず、ツケはどんどんと押しつけられ、この星もまた、ゆるやかに死を迎えようとしている。
 今や森など形もなく、氷山は溶け落ち、全世界の、恐ろしくも9割以上が海に沈んだ。
 それを引き起こした彼らも、当然のごとくそのほとんどが命を落とし、生き延びたのはごく一部の幸運な民のみ。
 というのも、どうやらこの惑星の生命らは、ただいたずらに星を壊していたわけではないようで、「こんなこともあろうかと」を常に先回りして用意していた。特殊なドームに覆われたこの海底都市も、察するにそのひとつであるらしい。
 しかしこうなると分かっていたのなら、他に取るべき手段は、本当になかったのだろうか⋯⋯
 そんな物思いに、いつものようにふける彼を、そっと遠巻きに見つめる者がいた。
「⋯⋯また、こんなところに」
 毎回毎回、ご苦労なことである。いつも同じところへと抜け出して、探す手間が省けるとはいえ、こんな危険地帯まで迎えに来る方の身にもなってほしい。
「アーネル!!」
 名前を呼ばれ、びくりと振り向く。
 急に動いたために、足元の鉄の残骸がいくつかぽろぽろと山を転がり落ちていった。
「⋯⋯エシナ」
 そろそろだろうとは思っていた。彼女はいつも、共に孤児院で育った昔なじみである自分が勝手にいなくなるとここまで探しに来る。たとえそこが、立ち入り禁止の区域であっても。
「何回も言ってるでしょう!ここは危ない!立ち入り禁止!早く降りて!」
 まくし立てるほどに、エシナと呼ばれた彼女の黒いポニーテールが背中の中ほどで揺れる。
 表情までは窺えないが、きっといつものように眉尻を上げ、気の強そうな怒り顔をこちらに向けていることだろう。
 自分は髪や目の色素も薄く、服装などもどちらかと言えば地味な方なので彼女のように活発な存在感にはどうにも圧し負けてしまうところがあった。
「はいはい、っと」
 二人にとっては、もはや聞きなれたし言い慣れた文句だ。たしかにこの廃棄場は既に使われていないため人の出入りももうなく、立ち入り禁止と書かれた申し訳程度の立て看板を無視しないと入ることはできない。
 たとえばこの山が突然に崩れ、二人もろとも埋もれたとして、気づいて助けに来る者などいないだろう。
 ここは危険である。その一点においては、二人の認識はたしかに一致していた。
「でも、今日こそは見れる気がしたんだ」
 しかし反省の色もなく、山を降りたアーネルはまたソラを見上げる。
 クジラはもう、どこへかといなくなっていた。
「またそうやって⋯⋯いつもそんなこと言って、みんなに心配かけて、結局一度も見れたことなんてないじゃない」
「⋯⋯⋯⋯」

「クリオネなんて、きっともういないのよ」

「⋯⋯いるさ」
「いいえ、いない。私たちがヘンな都市を海底に作ったりなんかしたから、何かがおかしくなって、だいたいの深海生物は姿を消した。そうでしょ?」
「それは、」
 事実である。
 昔は千種以上観測されていたという深海生物だが、今ではほとんど見られない。
 探しに行こうにも、この深海という極限の環境を往く技術は既に失われてしまった。
 都市を守るこの特殊なドームから、きっと彼らはもう二度と、出ることはできないのだろう。
 踏み込めない神秘が眠る、人が生きるにはあまりに過酷で、しかし美しい世界。
 そんな概念を、仮に宇宙と呼ぶのなら。
 宇宙とは、死とは、今や彼らにとってあまりにも近い。
「そうだけど」
 エシナは長いため息をついた。ついに呆れられてしまったのだろうか。
「付き合ってられないわ」
 いつもなら何だかんだと文句を言いながらも一緒に帰っている二人だが、今回は違った。エシナはついに愛想を尽かした様子で踵を返し、立ち入り禁止の看板もさっさと通り過ぎて先に帰っていく。あとにはアーネルだけが残された。
「それでも、僕は⋯⋯」
 クリオネが見たかった。小さい頃に一度だけ目にすることができた、幻想的な妖精のごとき姿。
 世界がこんな風になるまでは、お金さえ払えば簡単に見れるという施設もあったらしいが、そんな余計な娯楽はもうここには存在していない。
 宇宙の底で、ただ潰されないように、ひっそりと呼吸する。今の自分たちに許されているのは、ほぼそれだけと言っても過言ではないのだ。
 ならばせめて───
「⋯⋯えっ?」
 ほとんど直感だった。ドーム越しに落ちた、ふわふわと動く小さな影。
 アーネルは慌ててスクラップの山を登りなおした。何せここは、彼の知る限りソラに一番近い場所なのだ。登りきるには当然時間がかかるが、一度たどり着いてしまえばあらゆる方向をよく見渡せる。やがて彼は天辺にたどり着き、先ほどの影を探した。瞳は水を映して青黒く輝き、子供のように純粋な期待を湛えている。
 もう一度見たいと望んだ。それさえ叶えば、あの頃から止まっていた自分の時間が、また動きだすような気がしたのだ。
「あ、ああ⋯⋯!」
 間違いじゃない、それはたしかにクリオネだった。
 それも昔見たような、一匹だけではない。何匹ものクリオネが連れ合って、宙(そら)を泳ぐ。あんなに求め、焦がれても、見れなかったものが、まるで最初からいたかのように当たり前に漂っている。

「やっぱり、綺麗だ───」

 思わず笑みがこぼれた。
 しかしそれは、ともすれば醜悪な感情だったのかもしれない。
 自分たちが壊し、我がもの顔で手に入れた環境であるにも関わらず、それでもしぶとく生き残る生物たちを見て「かわいい」だの「綺麗」だのと持て囃す。
 本当にそう思うのなら、もっとやり方はあっただろうに。
「⋯⋯⋯⋯」
 アーネルももちろん分かっていた。この星がこの星のままでいるために、もっとも邪魔だったのは、最初に星を壊した自分たちであること。そうと分かっていても、「自分とその周りだけは」と誰もが望み、結局誰一人命を捨てられない自分勝手な種であること。
 クリオネは今、そんな彼らに存在を喜ばれることに、何を思うのだろうか。
 アーネルは背伸びをし、めいっぱいに手を伸ばす。
 世界のはじっこ、比較的天井が近いここでなら、こうしてがんばればドームのガラスに触れることができた。
 そっと、指を滑らせる。どう思われようと構わない。ただ、もう少し近くに⋯⋯
 沈んだ世界と、落ちた宇宙。二度と見えないソラの果て。太陽と星。
 ヒトの手のひらは、かつてその全てを自らの手中におさめようとした。
 だが今は、これだけ伸ばしたって、何にも届かない。
「──────」
 これはきっと、始めからそういう話だったのだろう。
 伸ばした手と、クリオネの間。
 未練がましいヒトの願いと、生存の具現。
 それにヒビが入る音を、アーネルは今、たしかに聞いた。
 

 終


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