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【SS】朝顔と約束

 昔はもっと身軽だったと思う。
 例えば、「明日世界が終わります」と言われても、「そうですか、分かりました」なんてすまして言えちゃうような。そんな人生だった。
 なんでも捨てられるし、なんにも持っていない。
 たとえ大人になっても、きっとこのままなんだろう。
 これは、心からそう思っていた頃の話。
 そこは1年生の教室で、私は小学生だった。季節は夏。それも明日にはもう夏休みという時期。学校が終わっても教室にはまだみんな残っていて、夏休み中に遊びに行く話で盛り上がっていた。でも当時の私は全部断って、ひとり朝顔を持って帰った。
 なんでも手に入るはずなのに、なんにも欲しくない。
 例えばこの朝顔だって、捨てなさいと言われれば───
「わあ、いい感じだねえ」
「夏休みも、ちゃんと面倒見てあげてね」
 担任の先生の声が耳の中に蘇る。
 この先生はやたらと褒め上手で、いつも誰かを褒めている。だからきっと深い意味はないのだろう。それでも、なんとなく、捨てるとかそういうのは考えないことにした。
 家に着いた。いつもは誰もいないけど、今日は民生委員さんが様子を見に来る日だ。せっかくだしあとで見せてみよう。
 すると私が何かを見せるのは初めてだったからか、民生委員さんは先生に褒められた時の私よりもよほど喜んでくれた。
 そして、「綺麗な言葉や素敵なお話をたくさんしてあげたらもっと大きくなる」と教えてくれた。
 なるほど、と素直に思った私は、毎日しっかり面倒を見ながら知る限りの綺麗な言葉を並べた。
「綺麗だね」「大きくなってね」「いい子だね」「ありがとう」
 正直成長は実感できなかったけど、それでも少しだけ楽しかったと思う。
 でもそれは最初の数日だけだった。
 大切なものがなんにもない私には、「素敵な話」というものも当然なかった。
 仕方なくハッピーエンドな絵本を読み聞かせたりもしたけど、これもなんか違う気がした。
 気づけば朝顔は、他愛のない日常を話す相手に変わっていた。素敵な話ではないかも知れないけど、ほっとくよりはいいと思った。
 けれども、それも長くは続かなかった。何でもなかったはずの日々を言葉にしようとすると、なんでか少しずつ恨み言が増えていったのだ。
 辛かったこと。嫌だったこと。子どもにはどうしようもないこと。私の日々にはそういったことがたくさんあって、でもせめて他の誰かには迷惑をかけないように、邪魔にならないように、いつも一人でいること。そして悲しいことに、そういう話ならいくらでもできたのだった。
 夏休みは半分を過ぎた。朝顔はどんどんどんどん大きくなった。宿題もほとんど終わって、他にやることもなくなってきた。
 夜はずっと暑くて寝苦しかった。
 窓際の朝顔はいつの間にか天井に届くほど大きくなり、開いた花は私の顔くらいあった。
 なんにも知らない私は、朝顔ってこんなに大きくなるんだとか、学校が始まったらどうやって持っていこうかとか、そんなことをのん気に思っていた。
 朝顔がしゃべり出すまでは。
「え?」
 朝顔の花から声がする。どこかで聞いたような辛い話を、悲しい言葉を、私にそのまま返してくる。そして最後にこう言った。
「あなたの『言葉』で、こんなに大きくなれた。ありがとう」と。
 綺麗な言葉。素敵な話。もちろんそれもいいのだろう。
 でもきっと、恨み辛みや愚痴の方が、「気持ち」としては濃くて強いのだ。
 朝顔のつるがひとりでに、ゆっくりと動きだす。
 友達がいないならわたしがなろう。誰も助けてくれないならわたしが助けよう。誰にも頼れないのなら、わたしがただひとつの拠り所になろう。
 さあ。さあ。
 朝顔が私に絡みつく。こぼした望みを全て拾って縋りつく。
 逃げることはしなかった。怖いとも思わなかった。
 だって「これ」は自分だ。全部自分の望んだことだ。
 なんでも捨てられるし、なんにも持っていない私が、朝顔とのお話を通してやっと見いだせた、願いごとの塊だ。
 背を向けられるわけがなかった。
 だから代わりに、
「ありがとう」
「でも、大丈夫だよ」
「朝顔さんがお話たくさん聞いてくれたから、欲しいものが分かった気がするの」
「これからは、ちゃんとがんばるよ」
 安心したのか、あるいは絶望したのか。
 朝顔はしゅるしゅると離れ、縮み、おそらく一般的と言える大きさに戻った。
 言葉ももう話さなかった。
 立ちすくんだ長い1分が過ぎたあと、私は膝を抱えて座った。
 なんにも持ってなくて、なんにも欲しくなくて、なんにも知らない。
 そんな今までの私は、ちょっと良くなかったのかも知れない。
 もう少しだけ、ちゃんと自分のために生きてみよう。
 そう思った。

 それからは、だいぶ変わった気がする。
 夏休みが終わった。やがて学校生活も終わった。私はどんどんどんどん大きくなった。たくさんの人と関わっていった。大切なものがたくさん増えて、なんにも捨てられなくなった。
 朝顔はもうとっくに枯れてしまったけれど、あの花が私をここまで連れてきてくれた。
 今はまだ、一人暮らしが始まったばかりだけど。
 落ち着いたら、今度は自分で朝顔の種を買いに行こう。
 あなたに届けたい、素敵な話がたくさんあるから。

  
 

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