【SS】傘理論

 雨なんて、別に平気だった。
 ただみんなが当たり前のように傘をさして歩くから、ぼくもなんとなくつられてさすことがあるだけ。
 濡れたって気にならないのに、それだってぼくの勝手なのに、みんながそれを許そうとしないだけ。
 自分の善意、あるいは良識とかいうものに、きっとよほどの自信があるのだろう。
 濡れたまま歩こうとすると、ある者は傘をさしだし、ある者は雨宿りできる屋根へと誘い、またある者はタオルを持ち出し、濡れた頭を好き勝手に拭う。
 もちろん、それが美しく、心の暖まる光景であるということに間違いはない。
 それでもぼくは、そういったものが、どうしても好きになれなかったのだ。
「今日も雨か」
 登校するとき親に無理やり持たされていたので、今日もぼくの手には大きな傘が握られていた。どこにでも売っていそうな、持ち手が木でできた真っ黒な傘。降り注ぐ雫からいつも自分を守ってくれる、量産型の盾だ。
 駅から家まで、約七分。この時間は自分と同じようにあとは帰宅するだけと思われる人が多く、誰も彼もが当たり前に傘をさしては雑踏に紛れていく。
 少し考えて、ぼくは手に持った傘をささずに歩きだした。なんだか濡れたい気分だったし、この程度ならたかだか数分さらされたところで問題はない。まぁ、そうして濡れて帰れば家族はまた文句を言うかもしれないが───
『あんたまた傘もささないで!まったく、本当に変な子ねぇ』
『そのまま入ったら床が濡れるだろう、あまり母さんに迷惑をかけるな』
「⋯⋯⋯⋯」
 二人が心配しているのは、別にぼくではないから。
 だったらぼくだって、わざわざ二人に変な気を遣ったりはしない。
「なぜ傘を持っているのにささないのか?」というような視線を時折感じながら、逃げるように視線を彷徨わせつつ、歩く。するとその先に、知らない看板を見つけた。ここは毎日登下校に使う道だから、何か目新しいものがあればすぐに気づくだろう。となると、昨日今日のうちにできた店だろうか?

"あなたの傘、見立てます"

 近づいて見ると、看板にはそれだけが書いてあった。
 見立てる。その人にあったものを選ぶ。要は傘を売っているお店だろうか。たとえばオーダーメイドとかそういう類のものであるなら、ただの短大生である自分にはとても手が出ないだろう。それに、そもそも自分はこの通り傘をあまり使わないのだ。だからそんなのは───
「⋯⋯いや」
 ちょっと、中を見るだけ。近所に新しくできたお店がどのようなものなのか、ちょっと確かめてみるだけ。これはただの、そう、知的好奇心というやつだ。まさか入っただけでお金を取られるようなこともあるまい。
 そんな言い訳を頭の中で並べながら、自動のドアをそっとくぐる。背後でそれが閉じると、かすかな水の音はそれだけでもう聞こえなくなった。

「いらっしゃいませ」

 出迎えたのは、自分よりはいくらか歳上に見える線の細いお姉さんだった。
 背中まで伸びた重たい黒髪とは裏腹に、思わず見入ってしまうほど綺麗な琥珀の瞳。いらっしゃいませと言うからにはお店の人なのだろうが、とくにフォーマルな格好をしているわけでもないので、黙っていれば客と見間違えただろう。
「傘を、お探しですか?」
 言いながらじっと、隅々までぼくの様相を見つめる彼女。
 そりゃそうだ。何故なら自分は既に、この手に傘を持っている。壊れているわけでもない。なのに髪や服はしっとりと濡れている。変人が来たと思われても、文句は言えない。
 だが彼女は一言、
「お辛かったでしょう。どうぞ、こちらへ」
 辛かった?ぼくが?
 ぼくは自分のことを、ひねた考えの人間なのだろうと思って生きてきた。実際周りもそのようにぼくを扱ったし、感情を向けられることがあったとしても、それは呆れか、中途半端な優しさばかりで。
 でも、憐れまれたのは、初めてだった。
 初対面でいきなりそんなことを言われれば、大概の場合は「お前に何がわかる」とばかりに気を損ねるものなのだろうが、そういう気持ちは不思議とわかなかった。ぼくに芽生えたのはむしろ、自分の心の一番やわい所を急に掴まれたような、漠然とした恐怖だった。
 でもそれでもぼくは何故か素直に頷き、彼女に薦められるまま奥のテーブルにつく。パイプの椅子は2つあって、向かいの席には当然彼女が座った。
「人の生には、それぞれの色があります」
「そして人の悲しみには、価値観による差異があります」
 彼女はゆっくりと話しだした。正直どこに着地するのか分からない、言ってしまえばうさんくさい語り口ではあったのだが、席についてしまった以上は最後まで聞くことにする。
「その価値観とは、生きていくうちに勝手に形作られていく、その人にしか理解できないものです」
「一般に、大事に育てられた人は突然の大きな悲しみに弱く、幼い頃から辛い目に合ってきた人の方が悲しみに強くなるものですが、仮にそんな二人が出会い、悲しかった出来事を共有したとして、恐らく真の意味で共感しあえることはないでしょう」
 わかる気がする。
「ですから、悲しみの雨から自分の身を守るには、それを理解し、自分にあった心の傘を持つ必要があります」
「ここは、それを見立てるためのお店です」
「⋯⋯⋯⋯」
 急に分からなくなった。
 ここに入るにあたって、財布の心配くらいはまともにしていたぼくだが、宗教勧誘の警戒まではさすがにしていなかった。
「あなたの人生は、濡れています」
 見上げた琥珀の瞳が、動けないぼくの目と合う。そらすこともできないまま、彼女の心からの哀れみが流れこんでくるように感じた。
「ですがあなたはそれを、辛いと思わない。だから傘をさそうとしない。自分を守ろうとしない」
「その馴染み具合からすると、恐らく原因は家族でしょうか?長くそういう思いをしてきたということは、親や兄弟に恵まれなかったのでしょう」
「⋯⋯それは、」
「あなたは今更自分を守ろうとは思わない。何故ならそれをしてしまえば、今までの『苦労』が無意味になると思っているから」
「あなたはきっと、このままずっと、悲しみを悲しみにしない。苦しみを苦しみだと思わない。そうすることで、自分は可哀想ではないと、普通なのだと思い込むことで、心の平穏を保っていく。しかし実際のあなたは、こんなにも濡れて」
「うるさい!」
 胸が、痛かった。こんなに痛いのは、初めてだ。
 いや違う、もしかしたらずっと、ずっと前からぼくは、こんなにも痛む胸を抱えて───
「違います。勝手に決めないでください。初対面のくせに、えらそうに⋯⋯!」
「⋯⋯そうですか。あなたはずっと、そうやって生き続けるのですね」
「だから!」
「今日は、あなたの他に二人のお客様が来ました。あなたは三人目です」
 違う、と重ねようとするぼくの言葉を、彼女は静かに遮る。だから何だと言うんだ。
「一人は、中学生くらいの女の子でした。とても心の弱い方で、クラスに馴染むために、自分の意志を殺して何もかもを周りに合わせ続けていました」
「しかしその結果、八方美人などと蔑まれ、しまいには友人の一人もいなくなってしまったそうです」
「それが今、何の関係が⋯⋯」
「私は彼女の話を聞き、その心に大きくて頑丈な傘を渡しました。かわいくも何ともない、実用性に特化したものでしたが、彼女はとても気に入ったようでした」
「痛みを恐れなくなった彼女は、自分の意志をみんなに伝え、真に気が合う者との友情をその後手に入れたそうです」
「⋯⋯⋯⋯」
「次にここを訪れたのは、厳しい顔をしたサラリーマンでした」
「彼はプライドが高く、会社からも家庭からも、自分はいつも正当な扱いをされていないのだと、大変不満そうでした」
「その心には既に、意地と欺瞞に裏打ちされた重い傘が開かれていました。私が何を言っても、このままでは届かないように思いました。」
 先ほどから当然のように、心をまるで見えるものであるかのように語っている彼女。
 それは単なる比喩なのだろうか、それとも⋯⋯
「私はその傘を閉じさせ、代わりにぼろぼろの傘を見せました」
「これは、あなたの周りにいる人たちの心の傘だと、言って聞かせました。傷つけられたと憤慨していた彼のプライドは、むしろ彼らを傷つけていたのです」
「───人はみな、大なり小なり、心に傘を持っています」
「それを替えるのか、活かすのかは、その人次第。私の役目はそれを見定めることにもあるのです」
「⋯⋯ぼくは、」
 彼女の言いたいことが、少しわかった気がした。
「ぼくは、どうするべきですか」
 伝わったと安心したのか、彼女はいつの間にか微かに笑んでいた。
「そうですね、あなたなら───」

「ご利用、ありがとうございました」
 見送られながら、店を出る。
 雨はもう止んでいて、見上げた遠くにうっすらと虹が見えた。
「⋯⋯こちらこそ」
 聞こえただろうか、ぼくは前を向いたままそっと挨拶を返し、そのまま歩き出した。
 カバンに付けた、開かれた傘の形をしたキーホルダーからかすかに響く鈴の音が心地よかった。

『あなたに必要なのは、忘れないことです』
『あなたは立派な傘を持っているんだということ。そして辛い時には、それをさしてもいいんだと言うこと』
『あなたの心は、その気づきをずっと求めていたんですよ』

 りんりん、とわざと大げさに鳴らして歩きながら、そっと笑みをこぼす。
 忘れないでいよう。あの人のことも、ぼくのことも。
 この音を聞く度に、きっと何度でも思い出す。
 悲しみは悲しみのまま、苦しみも苦しみのまま。受け入れることで、認めて癒すことで、ぼくは心の平穏を保っていくのだ。

"あなたの傘、見立てます"

 ふと振り返ると、そんな看板はもう、どこにも見当たらなかった。



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