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2021.1.31

”彼女の茶色の目を思い出す。”
映画やドラマで度々見かけるセリフがある。
こんな野暮ったい言い方ではないかも。

先日”ドライブマイカー”を見た。
濱口竜介さんの作品を初めて見た。
自分が素敵だと感じている人が薦めているものは素直に受け入れた方がいいと、この先何度気付き直せばいいんだろう。もっとこの人の作品にたくさん触れていたいと感じることができるいい映画だった。

かのドライブマイカーでも主人公が亡くなった妻の目の色に言及するシーンがある。

そういった表現に漠然とした憧れをもつ僕は是非自分の人生においてもそのセリフを自然と拾い上げるように使いたい。

僕が少し凝った言い回しや複雑な言葉を使うときは大方そういった邪な気持ちが内在されている。今の分だって少しだけそう。

たとえ見栄であったとしても自分の引き出しに美しい言葉少しずつ増えていく感覚を気持ちがいい。いいことなんですきっと。できれば馬鹿にし過ぎないでほしい。けどイジられないのももどかしいのでいい塩梅でお願いします。

さていざそれを使うタイミングになったとして、困ったことに僕は恋人の目の色を知らない。毎日顔を合わす母であっても同じだ。

厳密に言えば知らないことはないんだろう。何度も対面して話したことはあるし人の顔を見て話しなさいという一般的なマナーも教わってきた。

それでもわからないということは覚えていないんだな。というか覚えようともしていない。意識がない。

彼女たちが明日突然姿をくらましたら、僕は二度と彼女たちの目の色を確かめることはできない。写真はあるが個人的に写真に写る目と実物の目は必ずしも一致するとは思えない。

光の加減やその場の明るさ、気持ち等々で目は大きく姿を変える。だから僕の目の前にある目を認識するにはその一瞬しかないと考えている。

スマホが普及して、いやテレビひいてはラジオ等の娯楽が増え、互いの顔を観察する時間は次第に減ってきたんだろう。会話はあっても同じドラマを見ながらとかYouTubeを見ながらとか目線は同じでもお互いを見る時間というのは少ない。

勿体無いような気がしてきた。
僕は周りの人がいなくなってもその人がどんな外見をしていたか映像や画像としてぼんやり思い出すだけ。ただそれだけだ。

言葉としてはっきりその人を表現し第三者にありありと想像させるようなことはできないんだ。すごく寂しいし勿体無い。

親しい人が亡くなったとして、僕はその人が忘れらないように共通の友人やその近しい人とその人の話をたくさんしたい。そのためにはその人とたくさん思い出を作らないといけないしたくさん会話もしないといけないと思ってた。それだけじゃ足りないんだ。

人を理解するためには情報は不可欠だ。多い方がいい。きっと身体的特徴にもその人の人となりは少しなりと滲み出ているはず。人の中身を知るためには外見も知らないといけないのかもしれない。

今度会った時に皆さんのことマジマジと見つめるかもしれない。それは決して挑発的な態度なわけではなく視力が急激に落ちたわけでもなく。あなたのことを深く理解しようと努力しているだけかもしれませんので、ご容赦ください。

この日記を読んでくれている数少ない物好き達に分かってもらえれば幸いです。

明日から6時に起きますのでこの辺で。
おやすみなさい。




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