pray / at 明治神宮| tabi.15
少し前に伊勢に行った。
神宮の外宮と内宮で手をあわせていた。
切なる思いがあると参拝に対する優先順位が上がる。普段は強い宗教観もなくて、静かに私を見ていた神様がいるとしたら、きっと都合のいい小娘がこんなときだけ、って思うのかもしれない。
でもちょっと真面目に考えた。
私の生活のすべては東京(とその近郊)で起きている。願いは東京にある。
それなのに伊勢で参拝しながら地元で手を合わせないのは、何だか飛躍しているんじゃないかって。
それで週末の昼下がり、東京は原宿の明治神宮に足を運んだ。
伊勢では用事のある前時間、早朝を歩いたから人気が少なかったけれど、こちらでは人の波だった。そう、東京なんだし。
世界にはさまざまな宗教があって、それらが政治や有事につながっていることが報道されている。社会のマクロ的な視野の中ではどうしても無視できない。
私の視座はずっとそこにあったから、宗教って何なのか、願うとか祈るとか それは一人の人にとって何なのかということに気をとめたことがなかったんだと思う。
でもここに来て
自分なりのこたえを持った。
生きたいから、きっと祈るんだろう。
女性が話しをするとき、相談するとき、
具体的な方法論を求めてるんじゃなくて、聞いてほしいだけの多かったりする…という定説。
ただ私の場合、どちらかというと
現実的な解の話をしたいと思うことが多い。
だから願うより動いた方がいいと考えることが多かったのだけど、
もし、自分の力では到底及ばない
問題や悩みばかりだったら…?
そんなとき、私は手を合わせるしか
なくなっていた。
そうか、そういうことなんだ。
受験生時代に単語を覚えていて
「P のあとにくるのは L ではなく R である」と、私にとってスペルを正しく書くことの方が先行していた言葉、〝pray〟の文字が色濃く脳裏に浮かび上がる。
理想とする現実に近づけないのは苦しい。
不可抗力とか理不尽とか、資本のこととか、
人によって中身は違えど
どうにもできないことで苦しんでいる人がどれだけいるんだろう。
今まで考えたことがなかった。
私は優しくなかったんだと思う。
でも今はわかる。
どの宗教なのかということではなく
それぞれ神様だと思う存在に対して祈るのは
心を正しく保ちたい
まっすぐに生きていきたい
迷うよりも進みたい、
そんな生命力に満ちたもので
イデオロギーそのものなんじゃないかって。
〝pray〟の言葉が ストンと腹落ちした。
こんな時代が私にも来るって
今まで考えたことはなかった。
私は今まで通りだけど、
願いをかける人への配慮、
祈りたくなる人への寄り添い、
人にはもう一歩。思いやりを持つようにしたい。ふつうに笑顔の人が切なる願いを持っているかもしれないから。
私の苦しみは、きっと今までわからなかった世界を知るために必要な試練なんだろう。そう思うことにした。
秋晴れの原宿、明治神宮にて。
Aoi314