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最高トゥースな夜であるがゆえに

時々、無自覚にバズってしまうことがあります。

2023年12月18日。noteに「オードリーから気持ちが離れていった2023年」と題した文章を書き、アップロードしました。noteはブログのようなものだと思っていて、日記くらいのつもりで書いています。書いた内容を要約すると以下のようなことです。

私はオードリーのラジオ番組「オールナイトニッポン」を2009年の初回放送から欠かさず聴き続けるほどのファンでした。彼らが出演するテレビ番組も大好きで、それらを視聴するのはもはや生活の一部。ですが去年、彼らの発信するものを今まで通り楽しめない自分に気付いてしまいました。そうした自分の中に起きた心情の変化や戸惑いを綴り、自分はもうターゲットではなくなったんだ、でも嫌いになったわけじゃない、「大好き」から「ふつう」になっただけ。と文章を結びました。

アップロードした当初は、いつも通りの「20いいね」くらいの反響でした。しかし、すがやしのぶ氏がX(Twitter)でリンクを貼ってツイート。このツイートがバズり、noteが拡散され、多くの人に読まれる結果になりました。

みんながうっすら思っていた事が言語化された時、バズると言います。川村元気さんの言葉を借りれば「集合的無意識にヒットした」と言えるかもしれません。一番多かった反響は、「わかる」「同じ」「私もそう思う」というものでした。

さらに、「この人にとってはオードリーだったけど、私も別のジャンルで同じ経験ある」など、ファン心理のようなものへの共感も多く見受けられました。私のnoteはかなり多くの人の共感を呼んだようです。

一方で、不快感を書き込む方もチラホラ。私宛に攻撃的なリプライもいくつか届きました。確かに、今熱狂的に楽しんでらっしゃる方が見たら腹の立つ表現をしていたかもしれません。また、そうした腹の立つnoteが共感を集め、バズっている状況自体にも不愉快な気持ちがつのったことでしょう。気分を害された方、申し訳ありませんでした。

こういう状況の時、心が激しく動いた人ほど行動を起こすもので、noteを読んだ感想も過激で感情的な書き込みが目立つようになりました。また、noteの一部を切り取ったり、スクショを載せた上で自説を唱える書き込みも増え、そんなつもりじゃないのになぁと私も疲れてしまいました。

そこで、「もう読まれたくない」「読まれなくていい」と思い、noteの機能で記事を有料にして「蓋」をすることにしました。本当に興味を持った人だけ、お金を払えば読める仕様です。熱狂的なファンの方からしたら、わざわざ不愉快そうなものをお金を払ってまで読みに来ないはず。そう思って閉じました。

「一体どんな悪口が書いてあるんだろう?と思って読んでみたけど、この人の気持ちが書かれてるだけで拍子抜け!」という趣旨の感想が、大変しっくりきました。おっしゃる通りです。


* * * * *


と、そんな私。

実は『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』を配信で視聴いたしました。

は? お前、「オードリーから気持ちが離れたんじゃねーのかよ!」と総ツッコミを食らいそうです。

正直に書きます。抗い難い魅力がありました。なんたって「ラジオ史に残る伝説」になることが確定しているライブなんです。日が近づいてくるにつれ、そわそわする自分がおりました。

でもこれは言っておきます。オードリーを嫌いになったなんて書いてません。なんだかチューニングが合わないなと思う事が多くなったのです。2023年の下半期は特に、私自身が抱えていたストレスも大きく働き、これまでの生活習慣とのズレが生じました。なんだか言い訳がましい感じがしますが、それが事実です。

伝説の目撃者になるか、ならないか。その選択を突きつけられているようでもありました。まもなく2月18日がやってくる。昔の自分なら「もう興味ねーし」と突っぱねていたと思います。でも、自分はもうそんな子供でもない。フラットな気持ちで見よう。気負わずに。なんたって二度とない機会です。さらに言えば、配信で見られる気楽さもありました。FANYで配信チケットを購入。ハイボールとたこ焼きを準備して視聴開始です。

オープニングのアニメがいきなり素晴らしい。早くも号泣させられました。いいなぁ、このアニメの、この感じ。私には「昨日のラジオ聴いた?」なんて話せる友達や同僚は殆どいなかったけれど、わかります。ああいう仲間。仲良かったのに、ある時期離れたりする。あの感じ。あるある。それもわかります。そして、大人になっていく。生活のどこかにラジオがあって、今に繋がっている。描かれていたのは、私そのものではないか。なんちゅうもんを見せてくれたんや、なんちゅうもんを。四万十川の鮎を口にした時の京極さんくらいボロ泣きしました。

気付けばすっかり昔の素直なリスナーだった頃に戻り、ただただ「すごいな」「面白いな」「楽しいな」「かっこいいな」「ありがとうございます」「おめでとうございます」の気持ちで3時間半を見届け、放心状態になっておりました。

結局そうなるなら、ああいうnoteを書くんじゃないよ!って声が聞こえてきそうです。

でも、この自分もリアル。あのnoteに綴ったこともリアルなんです。このところ熱心なリトルトゥースじゃなかったけど、それまで14年間聴いてたんだもん。楽しめちゃうのよ。

急に余談ですが、箱根コナキンズ…私は好きでした。(マジで急に不要な余談だな!)

15年という歳月が積み上げた奇跡。無事に目撃できました。私のような面倒くさい古参も、この1〜2年でラジオを聴くようになった人も、偏りなく全員楽しめる素晴らしいエンタテイメントだと感じました。こんなに完璧なものってあるだろうかと思うくらいです。全てが過不足なく、パーフェクトでした。

泣いて笑って、感動して。ちょっと疲れて。そして、腹が立ってきました。自分にです。私はこの祭りの関係者でも何でもなく、遠くの遠くの小さな客でしかない。お祭りは主催者側にいるのが一番楽しいんです。そうありたい。そうあらねば。そうある為にはどうするべきか。それを考え始めました。「自分の祭り」をこしらえなければ。これに関しては、ゆっくり答えを出したいと思います。

オードリーのことを「大好き」から「ふつう」になった、なんて書きました。それは、ファン目線として。でも、これからは「リスペクト」が勝ってしまう気がしました。なぜ武道館の時点ではそう思わなかったのか不思議です。

彼らは遥か上空にいるエンターテイナーであり、プロフェッショナル。この、客観的に明快だったはずの事実を、東京ドームライブは浮き彫りにしてきました。若林さん春日さんがバラエティー番組で見せる笑顔、あの親しみやすさは罠でした。侮っていたのかもしれません。稀代のエンターテイナーであり、プロフェッショナル。漫才イノベーターであり、ラジオモンスター。その覚悟と狂気を見た気がするのです。

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