![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/82259621/rectangle_large_type_2_9929bf24003ec4d9eb3a7e5f472f16f2.png?width=800)
|words|"わたしを愛する" のいろいろ
2022年 7月 少し更新しました
2022年10月 少し更新しました
「わたしを愛する」ということも、いろいろな視点でのそれがあるなあということ、見つめていました。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44587204/picture_pc_49a5e3f3c0df380dd9df555a5afff794.jpg?width=800)
①の視点
現象の領域で起こることを、分離した視点で見ています。大人の場合、はじめはこの視点にあることが多いのかなとも感じます(もちろんそうでない方も)。
外からの情報、他者からの評価、外側の状況、誰かの反応、そうした外側のあれこれを見て、反応している。
例えば、「対象」を「取りにゆく」ことなども起こりやすいでしょう。星のめぐりについてならば、(外側向けの)対策用の情報として取りにゆくことが多くなるのかもしれません。
(それが悪いというわけではないのですが)外に目を奪われがちで、自身に眼差しが向き難いということは、どうしてもあるようです。また、自分と自分がくっつきすぎていて、愛するためのスペースを持ちにくいということもあるのでしょう。
この視点では、リラックスできる環境や状況を自身にもたらす、そうした何らかや感覚を与えてくれる他者とつながる、といった方法で、「わたしを愛する」(ということのきっかけをつかんでゆく)ことも多いのかもしれません。
「わたしを愛するって、なぜ大切なの?」という疑問もこの場所(視点)では(もしかすると)あるのかもしれません。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44802974/picture_pc_6faa76557ca51f974422ebdcc9f4bc00.jpg?width=800)
②の視点
視点が内に奥に向いてゆきます。
ここでは月をモチーフにしていますが、こころの動きや自身の在り方を見つめている視点。③の視点の予感が育まれます。
自身が何を想っているのか、何を感じているのか、無視せずに、ひとつひとつ見つめ、こころをととのえることで、ハート(自身)とさらにつながってゆきます。
星のめぐりで言うのなら、自分自身を知って、ほどくために、用いてゆく向きになってゆくのでしょう。
自身の在り方を見つめるほどに、奥へ奥へと降りてゆきます。
「こころの仕組みのおはなし」は、この視点にあるひと向けかなと思います。「わたしを愛する」ということが深まってゆきますね。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44803299/picture_pc_bb4e191f089ef0c73ece414002b009d4.jpg?width=800)
③の視点
②が深まると、③の視点へと抜け出てゆきます。その通路は、あくまでもそのひと自身の内奥にある、ということ。
抜け出るころには、いろいろが反転するような感覚もあるのかもしれません。
外は内で、内は外で、世界は自分で、自分は世界で、あなたはわたしで… そんなことも感じられゆく場所。
また、自身の振動(ここではハートをモチーフに描いています)に応じて、「世界」が色あいを変えてゆく様も見つめているはずです。
わたしを愛するということと、「世界」や誰かを愛するということが、イコールとしてあります。愛するも、愛されるも、同じこととなって、境目が溶けてゆく感覚もあるのかもしれません。
「わたしを愛する」ということの意味も、一層深く(ある意味違ったものとして)あらためて光るのだろうと思います。
全体の調和や空間といった感覚に近づいてゆくので、いろいろな矛盾が解消し、減ってゆきます。また、疑問だったことについても、感覚的にその答えを得るのかもしれません。
「うちゅうの仕組みのおはなし」は、この視点へ移行しつつあるひと、この視点に定着しつつあるひと向けなのかなと感じます。
限られた空間からほどかれて。ひろがりゆく空間、本来の場所へ、さらにさらに降りてゆきます。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44803397/picture_pc_b1322f81ee2638ce24c85618065a3f66.jpg?width=800)
④の視点
ここでは、愛という空間、その球体を見つめています。さらにひろく=深く、透明な場所。
この場所にあると、愛もよく見えるのでしょうし、もう愛と呼ぶ必要もなくなるのかもしれません。
ただただ、そうである、それ。
時間や、空間や、そうしたこともさらにほどけ、言葉も消えゆく場所でもありますね。
今回は、こんな切り口で挙げてみましたが、いろいろな切り口があるでしょうし、これが絶対というものでもないです。また、眼差しは、さらにさらにひろがるのでしょう。
視点に優劣はなく、遅いも早いもなく。
(便宜上の表現ですが)ひとによって、どの場所(視点)にありたいか/至りたいのか、それぞれの設定のようなものがあるようにも感じます。
そして、ひろく全体性にかえっても、個としてもありますね。
また、行き来することもあるのでしょう。どこかに常駐しつつも何らかをきっかけに時折行き来する方も、また、近いところを揺れるように頻繁に行ったり来たりする方もいるのかもしれません。例えば、①から④に急に(一瞬)飛んだりすると、とても不思議で神々しい体験をしたように感じられるかもしれません。
「わたしを愛する」のいろいろについて、視点のお話しから、でした。
どこにいても(どの視点で見ていても)結局は、すべて愛なのですよね。
どこにいても(どの視点で見ていても)たくさんの愛が見つけられますように。
words and sessions Δhoshimiya jiku
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?