|words|"わたしを愛する" のいろいろ
「わたしを愛する」ということも、いろいろな視点でのそれがあるなあということ、見つめていました。
①の視点
現象の領域で起こることを、分離した視点で見ています。大人の場合、はじめはこの視点にあることが多いのかなとも感じます(もちろんそうでない方も)。
外からの情報、他者からの評価、外側の状況、誰かの反応、そうした外側のあれこれを見て、反応している。
例えば、「対象」を「取りにゆく」ことなども起こりやすいでしょう。星のめぐりについてならば、(外側向けの)対策用の情報として取りにゆくことが多くなるのかもしれません。
(それが悪いというわけではないのですが)外に目を奪われがちで、自身に眼差しが向き難いということは、どうしてもあるようです。また、自分と自分がくっつきすぎていて、愛するためのスペースを持ちにくいということもあるのでしょう。
この視点では、リラックスできる環境や状況を自身にもたらす、そうした何らかや感覚を与えてくれる他者とつながる、といった方法で、「わたしを愛する」(ということのきっかけをつかんでゆく)ことも多いのかもしれません。
「わたしを愛するって、なぜ大切なの?」という疑問もこの場所(視点)では(もしかすると)あるのかもしれません。
②の視点
視点が内に奥に向いてゆきます。
ここでは月をモチーフにしていますが、こころの動きや自身の在り方を見つめている視点。③の視点の予感が育まれます。
自身が何を想っているのか、何を感じているのか、無視せずに、ひとつひとつ見つめ、こころをととのえることで、ハート(自身)とさらにつながってゆきます。
星のめぐりで言うのなら、自分自身を知って、ほどくために、用いてゆく向きになってゆくのでしょう。
自身の在り方を見つめるほどに、奥へ奥へと降りてゆきます。
③の視点
②が深まると、③の視点へと抜け出てゆきます。その通路は、あくまでもそのひと自身の内奥にある、ということ。
抜け出るころには、いろいろが反転するような感覚もあるのかもしれません。
外は内で、内は外で、世界は自分で、自分は世界で、あなたはわたしで… そんなことも感じられゆく場所。
また、自身の振動(ここではハートをモチーフに描いています)に応じて、「世界」が色あいを変えてゆく様も見つめているはずです。
わたしを愛するということと、「世界」や誰かを愛するということが、イコールとしてあります。愛するも、愛されるも、同じこととなって、境目が溶けてゆく感覚もあるのかもしれません。
「わたしを愛する」ということの意味も、一層深く(ある意味違ったものとして)あらためて光るのだろうと思います。
全体の調和や空間といった感覚に近づいてゆくので、いろいろな矛盾が解消し、減ってゆきます。また、疑問だったことについても、感覚的にその答えを得るのかもしれません。
④の視点
ここでは、愛という空間、その球体を見つめています。さらにひろく=深く、透明な場所。
この場所にあると、愛もよく見えるのでしょうし、もう愛と呼ぶ必要もなくなるのかもしれません。
ただただ、そうである、それ。
時間や、空間や、そうしたこともさらにほどけ、言葉も消えゆく場所でもありますね。
「わたしを愛する」のいろいろについて、視点のお話しから、でした。
どこにいても(どの視点で見ていても)結局は、すべて愛なのですよね。
どこにいても(どの視点で見ていても)たくさんの愛が見つけられますように。
words and sessions Δhoshimiya jiku
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