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4月の晴れの日の清澄白河

有給消化で平日にでかけられるチャンスができたので、前から気になっていた現代美術館の企画展に行くことにした。

「ライゾマティクスマルティプレックス展」最先端のテクノロジーを視覚的に表現したものと、「マークマンダースの不在」横たわる巨大な頭部の彫刻がポスターの目玉になっている強烈な印象の展示。

ライゾマティクスは日曜美術館でも紹介され、また圧倒的な映像美の片鱗が公式HPでも垣間見れた。けどどうしても「マークマンダースの不在」という不穏なタイトルと、ひび割れた、眠るように転がる巨大な頭部の彫刻が気になってそちらを見ることに。

折角なので清澄白河の通りを散策しつつ向かいたいなと何年か前に江戸のような風情のある通りを歩いたのを思い出しながら駅を出て歩くと期待していた道があった。江戸博物館が面している通り。深川飯の暖簾がちらほら、お寺が多くてその軒先から出ている木の木漏れ日がなんとも心地よい。それに店先に古本が並んでいたりして今度きた時は通りをゆっくり見たいなと思った。

そんなのどかな気持ちで美術館にやってくると、平日ということもあって人はまばらだった。フロアにまで漏れる音楽(おそらくライゾマティクス展の音)を横目にいよいよマークマンダースとの対面。

冒頭の紹介文などからは、作家自身の"マークマンダース"としての自画像を、建物という様式を用いて表現したものだという解説を知れる。「建物としての自画像」というあまりに聞きなれない単語の並びが想像力を書き立てるのと同時に、やっぱり意味が分からなくて何度も解説文を読み返してしまった。やっぱり実際に見ないことには始まらない

ということで入ってすぐに、層になった板と顔の縦一部からなるオブジェが出迎えた。それは実物大くらいの顔なのだけど、板の合間から見えるその静かな表情はひび割れて固く、とても静かな印象。なるほど、私が勝手に思った印象は安直だけど、かつて"活き"て、今はただそこに"在る"だけの廃墟のような、そして今目の前にあるオブジェはそんな巨大なかつての繁栄の欠片、廃墟の一片を、その過程の静寂もろとも自画像化した様子。そんな印象だった。なんて示唆的で格好いい作品だろう(廃墟のあのかつての痕跡を時に生々しく残したなんともいえない不穏な情感にまたこんな形で会うなんて!!)作品達は、そんな彼の世界観の中に建つ様々な"群像"なんだと思った。

その次にあったのはタイトル「夜の庭の光景」とつけられた作品。ガラス張りの箱の中には真っ黒い台の上に瓶が2つ。対角線におかれたそれには紐がつたい、その真ん中に横たわるのはなんとお腹で真っ二つになった黒猫。紐の下で分断されていてちょっと怖かった。他にも黒い何かがあったけど猫が強烈すぎて思い出せない。でも全体の構成はやはり瓶が“建物”のよう。真っ暗闇の夜の庭で目を開けることができたら、こんな底知れない闇が見えるのだろうか、不気味な箱庭だった。

その先には大きなテーブルとそこから強く一直線に伸びる少女の彫刻。タイトル「マインドスタディ」力強く一直線に伸びる少女だけどやはり表情は静かで無表情

その端、パーテーションの影に隠れる様にして床にあったのは、ベルトで一纏めにされた狐と鼠の彫刻。私が見ていたら横で子どもが母親に「こわ~い」と言っていた。無理もない。背を伸ばして固く横たわっている2匹はまるで死んでいるようだった。

この先を進んだら今度は巨大な胸像が四つ固まって並んでいた。ひび割れて静かな表情はまた示唆的で、今度はまさに廃墟そのものという感じ。像と像の間から奥の静かな像が見えて、それが、東京の街中でふと目にするビル郡の間から見える古いビルを彷彿とさせた。顔には黄色いパーツが埋まっているのだけど、あれはなんだろう。無味簡素なひび割れコンクリートの中で唯一際立つ色で、それが更にこの巨大な作品を印象的なものにしていた。

あと印象的だったのは「細く赤い文の静物」。口元だけ象られた彫刻が3つ対話しているのか、横に並びその背後には各々細い棒が立ち、その棒同士に赤い紐が垂れてつながっている。マンダースはもともと大学で小説などの執筆活動が主体の人だったようだけど、その文章を視覚化するセンスがこの作品に表れていて素敵な作品だった。刺激的な会話でもしているような様子だった。

他にも別な階に1つだけ 白い部屋になっている作品があったりした。中に入ると床がフワフワで一面真っ白い壁には"墜落する"辞書の絵1つ。なんて不安定な部屋なんだと思いながらもう一度キャプションを確認するために入り口に出ると、タイトル「3羽の死んだ鳥と墜落する辞書のある小さな部屋」うん、タイトル通りだけど鳥は何処に?概念的な存在なんだろうかと思っていたら、下のキャプションに内容があった。フワフワの床は、巨大なキャンバスで、それに覆われた下に"3羽の死んだ鳥"がいるらしい。部屋での一歩一歩の意味合いが大きく変わってしまった一瞬だった。

なかなかズシンとくる作品の数々だったけど、だからこそ見ごたえがあって良い時間をくれる展示だったと思う。あとは展示中にあった、ドローイングの廊下を見て私もドローイングをしたくなった。ひたすら思いつきに任せてペンを走らせたら私にもなにか見えてくる景色があるだろうか。ちゃんと自分の頭で考えるようになりたいな、そんなふうに思った水曜の昼下がり。また来よう。

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