見出し画像

どこにでもと言われて立ち尽くす

どこにでも住めるなら?なんて夢のある言葉だろう。

リアルな話をするなら市内の再開発で土地が爆上がりしている駅近の広い土地にアレコレ理想を詰め込んだ注文住宅を建てて住みたい。
そうでないなら、今まで住んだことのない暖かいところ、例えば沖縄で海を眺めながらのんびり生活してみたい。
コロナ以来行ってないけど海外にも住みたい。ヨーロッパは憧れの土地。

でもどこにでも住めるなら、と言われてここだという場所はとんと浮かばなかったりする。

タイムリーなことに、まさに今、私はどこに住むかを選び、その地に足を付けようとしている。いわゆるマイホームだ。もう少し経てば新築の家に引っ越す事が決まっている。

「憧れの」マイホーム、理想とは言えないが小さくとも自分たちだけの家。アレも欲しいこれも欲しいと少し前まで心をときめかせていた。
ところが、だ。さあ家が決まり本格的に新生活の準備を始めることになった私の心境はというと。

どこかに行きたい。

自分で自分にびっくりだ。
けれど間違いなくこう思う自分がいるのである。

ずっといつかは家を持って永く住むのだと思っていたはずなのに。そのために考え、夫と話し合い、行動に移したはずなのに。
だのに現実問題、私は新居から逃げたくて仕方がない。新居のアラを探し、知人の素敵なお家と比較しては落ち込む。長くここに住んでいるなら分からなくもないだろうが、転勤族かつ今の家に来てからまだ数ヶ月、愛着も知人もいないにも関わらずだ。
なんておかしな話だろうか。

理想の家じゃなかった?場所に妥協した?
それともお金の心配?
そんなもの全部その通りに決まっている。ああすればこうすれば良かった、まだ住む前なのに後悔だらけだ。けれど後戻りしたってそれらの後悔が解消されるわけではないと頭では分かっている。
だから私はあの新居にきっと住むのだろう。溢れそうなネガティブを抱えたまま。

詰まるところ、私には「覚悟がない」のだ。

住むということはそこで生きるということだという言葉を目にした事がある。
その通りだと思う。色々な理由にかこつけて駄々をこねているが、私には結局あの新居で生きていく覚悟がまだできていない。
今までは新しい土地に馴染めなくても数年頑張れば違うところに行けた。友人との別れは寂しいけれどそれなりに身軽で自由だった。
それが、これからは違う。
10年、いや20年30年をあの家で過ごしていくことになるのだ。同じ場所で私は生きていかなくてはならない。それは転勤族生活が染み付いている私にとってとても大きなプレッシャーだった。

引っ越しの前に心の整理がつくかどうか自信は無い。けれど整理がつかなくとも新生活が始まることは決まっている。
つまり私は生活を送りながら少しずつ覚悟をしていくしかないのだろう。いざ全て決まってから腹が据わっていなかったことを自覚するだなんてお笑い種だが仕方がない。この往生際の悪さも飲み込んでいくしかないのだ。
ものすごく不安で、ものすごく怖いけれど。


都市には都市の良さがあり、田舎には田舎の良さがある。
沖縄にも北海道にも海外にも、それぞれに素晴らしいところがあるだろう。
でも覚悟のない私にはどこにもまだ住む資格はない。目の前の新生活で精一杯だから。

だから、どこにでも住めるなら、いつか、私がこの新居で生きることを受け入れた後に。子供が育ち、巣立って身軽になったその時に。
きっと今とは違う選択肢があるだろうその時に心が動いた場所に住みたいと、そう思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?