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バターチキン(chapter 2)

大学での専攻は英文科だった。通訳の仕事をしたいという夢を抱いて、小さな田舎から出てきた18歳の自分が、もし32歳の今の自分を見たら、なんと思うだろう、と麻子はいつも苦笑する。それほどまでに、自分に何ができて何ができないのかを、見極める力すら若いころにはなかった。

帰国子女ばかりの東京のキャンパスで、麻子は必至に授業についていこうとした。バイトしたお金はすべて洋書や英語の教材に費やした。血統書つきの洋犬みたいに、きれいに着飾った同級生が多いクラスで、新しい服を買うお金すらなかった。そして、麻子はどんどん痩せた。

森沢と出会ったのは、20歳の夏のこと。チェーホフの『かもめ』を学生劇団サークルが上演すると聞き、なんの気なしに入ったホールで、上映が終わって帰ろうとしたん麻子は立ちくらみを起こして倒れた。担架に乗せられて医務室まで運ばれ、ことなきを得たのだが、つきそってくれたあげくアパートまで心配だからと送り届けてくれたのが、隣の席に座っていた森沢だった。

聞けば彼は大学のOBで、昔その劇団サークルに所属しており、後輩に見に来てくださいとチケットを渡されたのでたまたま見にきたようだった。 アパートまで送り届けられるときに、言われた。

「君はその年にしちゃ痩せすぎてるよ。僕はごはんをちゃんと食べない女の子は嫌いだからね」

元気になってからささやかなお礼の品を渡すため、駅で待ち合わせて会うと、おいしい店だからとラーメンを奢ってくれた。 はじめて森沢に手料理をふるまってもらったとき、麻子は泣いた。麻子の母は早くに亡くなっていたが、おかあさんの味に出会ったと思ってしまった。

なんでもない野菜の煮物と、卵焼きと、味噌汁という食事だったが、麻子が心から求めていたあたたかい食事だった。捨てられてみゃあみゃあ泣いていた猫が、やっとごはんをくれる飼い主に出会えたようだと。突然の雨に降られ、ずぶぬれになっていたところを、まるで雨宿りさせてもらえたかのような恋だった。

鍋にバターを溶かし、みじん切りにしたにんにくとしょうがを炒めて香りを出す。玉ねぎが茶色くなるまで辛抱強く炒める。調理をしている時間は至福で、本当に心が落ち着く時間だ。匂いがオフィスフロアまで流れてきたのか、向井がキッチンへとやってきた。

「本当に葉山を雇ってよかったよ。さすが俺だな。適材適所ってやつ?」

「ばーか」

軽口を叩けるのは、やはり長い付き合いの向井だからだ。20歳の自分を救ったのは森沢だったが、自分を拾ってこの会社に迎え入れてくれた向井にも感謝はしている。恋愛感情を抱いたことはないが、恩人だ。

「見てみて、葉山」

そう言って、向井はスマホを取り出し、指でぱぱっと操作したかと思うと、一枚の画像を麻子に見せた。1歳にも満たないかわいい赤ん坊が、こちらを見て笑っている。

「かわいいっしょ、うちの真帆たん」

「たんとか言うな」

「いいじゃんか! それはそうと、そろそろうちの社員の誰かと結婚してくんないの?」

「言ってるでしょー、結婚は、誰ともする気がないって」

「ばっかだなー、学生時代の恋をいつまでも引きずって。過去はきれいに見えるんだよ。だいたいなんでお前を置いて結婚しちゃった人のこと、いまでも好きなんだよ」

「人の恋路に口を挟まないの! 調理の邪魔邪魔。出て行って!」

「ちぇー」

森沢とは2年付き合ったあと、別れた。別れの理由は、森沢が東京から福岡に転勤となったからだった。29歳の森沢は、まだ学生の麻子を福岡まで連れて行くことはできない、と判断したようだった。

「きみの夢は、英語で食べていくことだろう? だったら、チャンスも多い東京で就職したほうがぜったいにいいよ。僕は僕で仕事をがんばるから、麻子もがんばって」

麻子にはずっと、なぜ森沢が自分を選んでくれたのかという自信がなく、ずっと不釣り合いな恋をしている気がしていたから、別れを言い出されてもごねなかった。なんでも持っている彼が、なにももっていない自分を手放すのは当たり前だと、麻子は思ってしまったのだ。

森沢と出会ったきっかけとなる劇団にはそのあとも幾度か足を運び、別れてから1年後に森沢が福岡で結婚したことを麻子は知った。同じ会社の同僚とだったそうだ。 麻子は小さな翻訳会社に就職し、1年半勤めてみたが、自分の能力に見切りをつけた。どうしても、英語と向き合って力が湧いてくる、という感じにはならなかったのだ。自分が何をしたいのか、考え直すために、麻子はいったん田舎町の故郷へと帰る。

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