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ずっと探していたんだよ

子どものころ、クリームシチューにごちそう感や特別感があったか? と聞かれたら、私は「なかった」と答える。うちは共働きで忙しく、そんな忙しい母がつくるメニューとしても、祖母が母のフォローをしてつくるメニューとしても、しょっちゅう出てきたから。

具材をちょっとだけ炒めて煮込んで、ルウをとかせばすぐできる、という手軽さゆえに、母も祖母も重宝したのだろう。ときには、炒めるという工程さえ省略して作っていたように思う。

だから、なんとなく子ども時代の「しょっちゅう食べた感覚」が邪魔をして、大人になって結婚し、自炊するようになってからあまりクリームシチューは作っていなかった。

けれど、最近また、うちの食卓にはときどきクリームシチューがのぼる。なぜ、心境が変わったのかと言われたら、自分でもわかりづらいのだけれど、寒い日に「なにか温まるものを食べたいなあ、ほっとしたいなあ」と思うとき、鍋メニューと一緒に出てくるのが、クリームシチューだったのだ。

優しいミルク系の味でまとめられたシチューは、一口食べると、こわばっていた体の力が抜ける。体も温まる。どうしてか、安心する。

私は食べものに、過剰に感情的な意味を持たせがちなのだけど、クリームシチューに乗っけている存在価値は、結構大きいと思う。だって、こんなの「私がほしかった温かかったもの」じゃないか。

思春期の中高生のとき、家族にも普通に恵まれていて、友人もいたのに、どこか居所のない気持ちを抱えていて、気持ちが寒く感じた。「人は信じられないけど、毛布とかストーブとかセーターとか温かいものは信じられる」という幼い世迷言を思っていた。

そのくせ、食が細かったので、あまり食べものには執心せず、低体温のがりがりの体で、授業中具合が悪くなるといつも保健室へ直行していた。このときは、何を食べても、美味しく食べられなかった。

でも、大人になって病を経験し、実家で療養するようになった私は、少しずつ自炊ができるようになり、自分で自分の食べたいものを、栄養バランスよくつくれるようになった。

このときも「体も心もあったまるものを、食べたい」と思っていた。たぶん、若さゆえ、まださみしかったのだろう。料理のレシピ本を食い入るように眺めては、そこから「なにか温かい感じ」を受け取り、再現したいと思って台所に向かっていた。

そうして、時はすぎ、いい歳になった今日この頃、ずっと探していた「温かい感じ」を私はクリームシチューに見ている。子どものころ飽きるほど食卓にのぼり、そう好きでもなかったはずのシチューが、いまはすごくほっとする。食べたくなる。

「探していたものは、身近にあったんだね?」とまるで青い鳥を家で見つけたかのごとく言っているが、クリームシチューをまた「食べたいもの/探していた温かいもの」としてとらえ直せたのは、単に自分のなかの「さみしさ」がだいぶ消えたからなんじゃないかと思う。

クリームシチューは、パンにもごはんにも合う。どっちと一緒にも食べたいが、私はシチューとごはんを混ぜて食べるのが好きだ。人によっては、好き嫌いの別れる食べかただけれど、口内でクリーム味を味わったあと、すっとお腹に収まっていく。

風邪をひいて弱っているときでも、食べられそうなひと皿だと思う。クリームシチューは「温かさ」の象徴なのだ。ここ最近の私にとって。私はふだん、じゃがいもにんじんたまねぎと、鶏肉でつくるけれど、今回思い立ってしめじを入れたらすごく美味しかった。今度は里芋とか白菜とか、アレンジシチューもつくってみたいと思う。

これから冬本番。今年はシチューが何度も食卓に上るのではないかな、と予想を立てている。もう、食べ飽きたものじゃない。さみしくなくなった私の、ただ、心温めるメニューの一品として。

今日のひと皿:クリームシチュー

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