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バターチキン(chapter 3:完結)

玉ねぎがしんなりした鍋の中に、鶏もも肉とカレー粉とヨーグルトを入れる。ヨーグルトはこのカレーに欠かせない隠し味だ。砂糖や塩コショウを入れた後、今度はトマト缶とコンソメを混ぜ来んで、くつくつと煮る。大きな炊飯器でご飯も炊いている。さて、サラダのために、わかめも戻しておかないと。

手際よく調理を進めながら、麻子はいつでも森沢のことを考えている。自分に、ものを食べる喜びを教えてくれた人のことを。ぼろぼろでどうしようもないときに、ごはんをつくってくれた人のことを。

「葉山っち、いい匂いがするんですけど!」

三保ちゃんがいつの間にか後ろに立っていて、鍋の中を覗き込んでいる。時計を見ると、十一時ぴったりだ。あと一時間あるので、まだ大丈夫だ。 うちの会社が主に請け負っているのはWEBショップの構築とデザインで、三保ちゃんはその開発のために徹夜も辞さないで働きづめだ。なんとなく、猛勉強して体重が激減した昔の自分を思い出して、この子は倒れさせちゃいかんと思ってしまう。

やっぱり麻子の心の中に、昔森沢に助けてもらったことが気持ちの芯として残っていて、今度は自分が料理で誰かを支えることが、麻子の喜びとなっているのだ。

「三保ちゃん、寝てる?」

「はい、だいじょぶですよ。今じゃ会社の椅子でも寝れます。寝袋もありますし」

「おうち帰って寝たほうがいいよ」

「そうですよねぇ、シャワーもしないと、きたないですよねぇ、24歳女子なのに!」

からからと笑う三保ちゃんに、今日はおいしいカレーをつくってあげようと思った。

田舎の実家に帰ると、土木事務所で働く父が、いつしか糖尿病を患っていた。麻子は父の伝手で市役所の契約職員の仕事を見つけ、とりあえず一年の間働きながら、自分に何がしたいかゆっくり考えることにした。祖母と父のために、慣れない包丁を持って麻子は家族の夕食を作り始めた。

最初につくった野菜の煮物は、森沢のつくったものと似ても似つかないものだったが、祖母も父も黙って食べてくれた。糖尿を患う父のために、薄味でヘルシーなものを作ろうと、麻子は料理の本を見るようになった。公民館でやっている料理教室にも通ったし、幼馴染の蓉子がちょうど病院に勤めていたので、介護食にも興味を持つようになった。

繰り返し調理を重ねるうちに、だんだんましな味のものがつくれるようになってきた。いままで麻子はだいぶメンタルも不安定だったが、自分であたたかい食事をつくり、口に運ぶと、とてもほっとすることに気が付いた。

一年後、麻子はなけなしの貯金と父から借りた金で管理栄養士を育てる専門学校を受験し、合格した。そこでいちから調理を学び、卒業後は三つの介護施設を転々とした。そして向井に拾われ、今に至る。

だいぶ水分量が減った鍋からはスパイシーな良い香りが立ち始めていて、やっと最後の仕上げだ。生クリームを加えて、少しだけ煮込む。時計は十一時三十分。カレー鍋の火をとめて、豆腐とわかめのサラダの準備を手早くして、それとはんぺんにチーズをはさんでフライパンで焼く。そろそろ、できあがりだ。

社員の皆は、仕事に集中しているのか、もう誰も見に来ない。流れる汗をタオルでぬぐって、一息つくと、麻子は冷蔵庫から冷たい麦茶を出してきてコップにつぎ、喉をうるおした。麦茶も、みんなが飲めるように夏場は大鍋でいっぺんにわかし、冷蔵庫に冷やしておく。これも麻子の仕事だ。

森沢と別れてから、いろんな人に、なぜ結婚するつもりがないのか聞かれることが多々ある。デートに誘ってくれた人もいたし、気のあるそぶりで接してきてくれた人もいる。ただ、麻子の心が動かなかったのだ。森沢のつくってくれた料理を食べて麻子が泣いた夜、森沢はただ背中をなでてくれて、麻子に「帰らなくていいよ」と言ってくれた。

みんながみんな、思い出は忘れるのが正しいと麻子に言う。でも、麻子は、自分のいちばんたいせつなものを、感情を、自分が捨てられないうちは持っていてもいい、と思って、誰とも結婚しないでいる。

人生の最良の瞬間、というのが誰の人生にもあって、たぶん麻子にとっては森沢の腕の中で泣いたあの日がいちばんいいとき、で変わりはしないのだ。あのときの、あの瞬間にさかのぼるために、麻子は今日も包丁を持ち、何かを刻んでいる。それが、麻子なりの、森沢への感謝のメッセージなのだ。

時計の針が十二時を指すと、会社の皆はそれぞれに伸びをして、麻子の食事を待ちわびる。カートに麻子はカレーの鍋と豆腐サラダとチーズはんぺんの大皿を乗せ、皆のいるフロアへと運ぶ。セルフサービスで、自分で好きなだけ取ってもらうのだ。おかわりも自由だが、カレーなど人気のある日のメニューは、すぐになくなってしまう。

「葉山っち、私のお嫁さんになってください!」

三保ちゃんが冗談を飛ばし、皆が笑う。カチャカチャとスプーンでカレーをつつく音がする。ごはんの音は、しあわせの音。もし今の会社を出て行っても、どこで何をしていても、自分は誰かのために食事をつくりつづけたい、と麻子は思う。そう、強く強く、思うのだ。(了)

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