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【エッセイ】ラ・カンパネラ

フジコ・ヘミングとプラハ放送交響楽団のジョイント・コンサートに行ったのは六月末だったが、そのときからずっとホール内で聴いたリストのラ・カンパネラが耳に残っていた。転がる音のきらめきと、ずっと根底にある哀愁と。少し哀しいメロディが忘れられず、ついに今日、音楽のダウンロードサイトでその曲(もちろん、フジコヘミングのピアノのもの)を購入した。

きらびやかで、せつなく華やかで、なのに無常観を感じさせるこの曲から私が想起したのは、じつは平家物語である。もちろんヨーロッパの作曲家リストがつくったこの曲と、日本の古典文学とはなんのゆかりもないのだが、このひたひたとせまる哀しみときらめきが、栄枯盛衰の物語と重なった。

美しいものを見たとき、聴いたとき、どう言葉に表すかは非常に難しくて、私もつたない言葉で彼女の弾くピアノの美を説明したいのだけれど、なんどリピートして聴き直しても、音の粒粒の心地よさに酔わされるだけで、うまく表現できずもどかしい。

コンサート舞台でのフジコヘミングの立ち姿をよく覚えている。黒無地にレースがたくさんついたワンピースで現れた彼女は、だいぶ御歳を召されて、まるくなった背でピアノに向かっていたが、その音は力強く、繊細だった。会場全体が、水をうったように静まって、ラ・カンパネラに聞き入った。

上手に崩れている、というのは、魅力ある人間のひとつの姿なのだろうと思う。完璧であることよりも、ほんの少しの退廃が、観客を魅惑することもある。咲いたばかりのバラも美しいが、散り際にいっそう香りたつバラの美しさにも、気が付く大人でありたい。

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