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バターチキン(chapter 1)

葉山麻子は勤め先の会社でたった一人の管理栄養士である。誘われて入った小さなIT企業で、毎日社員にお昼の食事を提供するのが麻子の仕事だ。6人の社員と、自分と社長の食事のために、朝から買い出しに行き、割り振られた金額内で食材を買い、午前のうちに給湯室兼キッチンといった狭いスペースで、8人分の食事をつくる。会社の周りにコスパのいい食べもの屋がいままで少なかったので、このプチ社員食堂は、なかなか皆に盛況だ。

「葉山っち、今日のゴハンはなんですかー?」

麻子が買い物袋を抱えて出社するなり、銀縁メガネの三保ちゃんが声をかけてきた。三保ちゃんは6名の社員のうちの紅一点の女性であり、ショートカットのよく似合う愛想のいい24歳である。それでもパソコン関係の知識は目を瞠るほど詳しく、サバサバした性格で男性社員からも一目おかれているのだ。

「今日はね、三保ちゃんの好きなバターチキンカレーだよん」

「うわぁ、やったぁ。葉山っちのつくるカレー、すっごくおいしいんですよね」

「手抜きだけどね」

「またまた。みんなに知らせてきますー」

 三保ちゃんがバタバタとパソコンデスクの周りに集まる社員たちのもとへ駆けていくと、麻子はふうと息をついて、重い買い物袋をおろし、会社の冷蔵庫に食材をしまい始めた。鶏肉や玉ねぎ、トマト缶など、次々に空いたスペースへと放り込む。冷蔵庫は共用なので、誰かの飲みかけのコーラや、デザートの杏仁豆腐などいろいろなものが入っているので、決して広くはない。 すべて食材を収めてしまうと、麻子はタイムカードを押すためにオフィスフロアへと歩いて行った。

「おはようございまーす」

 麻子の声に、まっさきに社長の向井が反応した。

「葉山、今日カレーだってな!」

食道楽の向井こそ、麻子をこの会社の栄養士兼調理師として雇った張本人で、麻子とは大学の同級生なのだ。向井も麻子も、今年32歳で、大学のときから数えると、もう14年の知り合いというか友人になる。向井は結婚して、子供もいるが、麻子はまだ独り身だ。その料理の腕があれば、引く手あまただと会社の皆には言われているが、麻子は誰かと結婚するつもりはいまのところない。

ITを仕事にする社員たちはみな、会社の設立当初からずっと不規則な生活が続くようで、業績が軌道に乗り始めたころから、過労や栄養不足で体調を崩す社員が出てきた。向井はそれをどうにかしようと思ったらしく、三年前に当時小さな老人介護施設の栄養士をしていた麻子をこの会社に呼んだのだ。給料ははずむからという言葉に、この先もずっと一人で暮らしていきたい麻子は飛びついた。貯金がほしかったのだ。

「葉山さんのつくる食事食べるようになってから、俺5キロ痩せて、コレステロール値も下がったんですよ。やっぱりカップやきそばや牛丼ばかり食ってた頃と違うみたいっす」

にこにことえびす顔で笑う社員の原ちゃんは、痩せたといっても十分に大柄の体型なのだが、そういう言葉を言われると、やはり麻子は嬉しくなる。

自分のデスクで、まず今日買った分のレシートを数え、金銭出納帳をつけて、出入りの金額が正しいことを確認してから麻子は食事づくりにかかる。

今日はバターチキンカレーのほかに、豆腐とわかめのサラダとチーズはんぺんを予定している。カレー以外はたいして手間がかからないが、手際よくつくらないと、8人分の調理を正午までに終わらせるのはなかなか、慣れているとはいえ大変だ。

リズミカルに玉ねぎを刻みながら、いつも麻子は無心になるのだが、そのときにいつも思い出す人がいる。麻子が大学時代、料理なんてできなかった頃に、おいしいものを食べさせてくれた森沢のことを思い出す。当時20歳だった麻子よりも7歳年上の恋人は、料理がとてもうまかったのだ。

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