遠回りの必要性

もう多くの日本人がこの手の話題にはすでに食傷気味だと思うけど、
日本における、不倫やその他当事者が至らなかったとされる出来事に対する週刊誌の報道と、それに対して反応する世論を見ていて、
経緯を含めて「どうしてこうなってしまうのか」と
特に自分は海外に来てから違和感を感じていた人間の一人である。

誰にでも間違いを犯すことはあるし、このいわゆる「叩き」の対象となる
その一つの間違いを見つけて、
鬼の首でも取ったかのように世論が一気に一つの方向に固まる様に
個人的にとてつもない恐ろしさを感じていた。

またその影響がどんどん子どもたちにも飛び火しそうだったので、決して人ごととはならず、ふとした拍子に考えていた。
というのは、子どもたちには当たり前だがまだ世界観が確立しておらず、
その世論らしきものを見た際に、これが実際の世の中であり、
当たり前であると言うことを思い込ませてしまうだろうことは想像に難くないからだ。ちなみにこの憂いはトランプ政権に対しても僕は抱いている。

この件を通じて違和感として大きく感じているのは、
同じ不倫でも、その当事者が誰か、またその状況によってあまりにもその「叩き」の温度や度合いが異なることである。
その出来事と当事者のギャップが大きければ大きいほど、その矛先は鋭くなっている。

どうしてこんな風になってしまうのか。

そこで一つ考えついたのが、この倫理的なことに対する明確な定義のなさである。

僕たちは子どもの頃、倫理の基準として例えば
「人に迷惑をかけてはいけない」といったことを習ってきたが、
現実世界で「人に迷惑をかけない」で生きていくことは不可能である。そこまで世界はシンプルにできていない。

しかもそういった単純化したことを、教育的な問題でもあるのだが、
私たちの多くは体験的にではなく知識として習ってきたので、
人に全く迷惑をかけないで生きていくことはできないと大人になってわかったところで、全く応用が利かない。

不倫のニュースが舞い込んできた時も、
そのいけないという基準があまりにも不確かなので、
同じ行為を行なったとしてもその当事者が異なるだけで私情によってここまで反応が変わってくる。

これをどうするかというと、子どものうちにいかに体験的に考えて自分の中での基準をそれぞれで構築していくしかない。
遠回りかもしれないが、こと倫理的な事柄に関しては、より柔軟に生きるためにも、経験に勝るものはなさそうだ、というのが僕の考え。

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