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【脳梗塞】お金のこと、その①

母が救急車で搬送されたのが7月9日でした。
もうじきひと月が経とうとしています。

いわゆる急性期の病院に運ばれて、転院の準備が必要になってきたため、昨日病院へ呼ばれました。土曜日に運ばれたのですが、昨日も土曜日。あれから4回目の土曜日を迎えた事になります。

私はひとりっ子で、母と同居。今回の第一発見者も私でした。
6人家族ですが、母の発見は倒れてから6時間以上経ってるとMRIから推測されており、大家族だから安心、という絶対はないんだなあと今回のことで思いました。たまたま私が休日出勤で夕飯できたよ、と呼びに行った時には声かけても反応がなく(声が出せないのと、目がもう瞳孔開いてるようにも見えた状況、左半身が不随でした)、かと言って、私はこれが脳梗塞の症状とはピンときてませんで、ただ、大変な状況にあって自分の手には負えない事だけは解りました。

以前にも書いてますが、母は『(死んだ)お父さん、迎えに来て』と聞こえるように繰り返し、娘の私は最期の虐待ではと常日頃感じていましたが、いま思えば老人性の鬱症状なんだろうと思える様になりました。そんな母の声は父には届かないのか、こんな条件になっても迎えには来ないようです。

冷たい娘だと思われるかと思いますが、父が41、母が37の時に生まれた自分は、小さい時からいつか両親が居なくなることを覚悟し、自分ひとりで生きていける事をずっと意識してました。もっと言えば、私がハタチの時には父は60を過ぎている訳で、大学に進学したら途中で学費が払えなくなって退学になるだろうからと、とりあえず卒業を意識して短大を選びました。そのくらい、両親が私自身の目の前から消えて面倒見てもらえない事を想定して生きてきました。結果としては、母から見えれば孫にあたる私の子ども達3人が成人するのを母は見届けた訳で、私の妄想は全く妄想でしかなかった訳ですが、この私の妄想が私の人格の全てを形成していると言っても過言ではないと思います。ホント、昔の60才は立派な老人に見えたものです。

父は昭和一桁生まれ(6年)。母が働くことを良しとせず、私が小学校の高学年になった頃から多分10年くらいかな、その間少しパートに行ったくらいのいわゆる専業主婦ってやつです。父は小学校しか出ていなくって、たぶん、家族3人を養うのは色々苦労があったんだろうなと想像しますが、それでも母を働かせたくはなかったみたいです。昭和一桁の人ですよね。

なので、ご想像通り、母の年金はそんなに多くないんですが、それでも多分、私世代が貰える金額に近い金額は貰えています。年金って不思議な仕組みです。

昨日、病院から自転車で帰りながらつくづく思ったのは、私は母が嫌いだなあ。そして、たぶん母も私が嫌いなんだろうと。ずっと同居していても、そんなものです。私はひとりっ子で良かったと思ってます。金銭的なこと、体力的な事含め、誰かを頼る選択肢がないから、ある意味諦めて受け入れられる。

ここまで読んでくれた方にはお気づきかと思いますが、けっこう私は人生に対して、緻密なシュミレーションを繰り返しているのですが、それは妄想の範疇で、何一つシュミレーション通りではないです。それはお金についても一緒。

その場に立ってはじめて、気づく事も多く、母の最期の虐待か、と思うこともあった日々ですが、身を持って反面教師に徹しているのかも、とも思い、気付きをこちらで何回かに分けてシェアしていこうと思い立ちました。

長くなったので、また続きは別のnoteにて。

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