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花束みたいな恋をした、そのあとに。【ネタバレあり】


さわやかな歌とかわいらしいお二人のCMが印象的な「花束みたいな恋をした」。大ヒット中ということで、私も鑑賞してまいりました。

▼Story
東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った 山音麦(菅田将暉)と 八谷絹 (有村架純)。好きな音楽や映画が嘘みたいに一緒で、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。近所にお気に入りのパン屋を見つけて、拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店しても、スマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが…。
(映画『花束みたいな恋をした』公式サイトより)

この通り、21歳の二人が出会ってからの5年間が描かれます。映画の結末を踏まえての、感想や私なりの意見を書いていきますので、映画を未鑑賞の方・これから観る方は、ご注意ください!


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【!】以下、ネタバレを含みます。

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現実の中ですれ違ってしまう、二人の気持ち

スニーカー、好きな本、映画、漫画、子供の頃からずっと思っていたこと…何から何まで気の合う二人。パッとしない21歳の秋、絹ちゃんにとって麦君は、そして麦君にとって絹ちゃんは、突如目の前に現れた、疑いようのない運命の相手でした。惹かれ合い、付き合い、一緒に暮らし、「楽しいことばっかり」な日々を過ごしてきました。しかし、お互いが就職をしてから、仕事、結婚、友人との関係などの考え方の違いが、二人の空気を少しずつ変えていってしまいます。やがて、麦君と絹ちゃんは、別れることを決意します。

そして、もう戻らない好きだった頃の気持ち

結婚式帰り、出会った頃に通ったファミレスに寄る麦君と絹ちゃん。「今日話さないと」絹ちゃんから別れの話を進めようとしますが、麦君は「気持ちが無くなっても、うまくやってる夫婦はいる。だから結婚しよう」と引き留めます。その時、近くのテーブルにいたカップルに、出会った頃の二人を重ねてしまい、二人は思わず涙してしまう。台詞はありませんでしたが、二人の気持ちは恐らく、「どうして、あの頃の気持ちのまま、いられなかったんだろう…」。

▼現実の中ですれ違ってしまう、二人の気持ち
▼そして、もう戻らない好きだった頃の気持ち

運命的に趣味嗜好の合う相手でも、厳しい現実の生活を前に、好きという気持ちは無くなっていくのでしょうか?そして、その気持ちは戻らないのでしょうか?その答えは、恋と愛の違いについて考えることで見えてきます。

先に述べた通り、麦君と絹ちゃんは終電で運命的に出会い、恋に落ちました。この時、麦君と絹ちゃんは「この人を好きになろう!」としたのではなく「出会って話していたら好きになっていた」という受動的なものです。

映画を見て思い出された方も多いと思いますが、恋に落ちた時の気分他の何にも代えがたい素晴らしいものですよね。恋心は、神様から人間に贈られた、まさに「祝福」のようなプログラムだと思っています。しかし、残念なことに恋心は長続きはしない傾向にあります。恋心を司る脳内物質は主に「アドレナリン」「ドーパミン」というホルモンで、『ドキドキ』している時はこの二つが出ています。しかしながら、これは長く一緒にいることで、減少していく(発生しづらくなる)傾向にあります。これが恋のドキドキが長続きしない理由です。

こういった受動的な「恋」に対し、それは性的(動物的)な欲求や所有の欲求を混在させたものであり、いわゆる「愛」として語られるものとは異なると、心理学者のアドラーは反対の意見を示しています。

「落ちる」だけの愛なら誰にも出来ます。(中略)意思の力によって、なにもないところから築きあげるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。(岸見一郎,古賀史健 共著「幸せになる勇気」)

こちらの引用にある通り、受動的な恋とは対照的に、愛とは意思の力による能動的なものだとアドラーは考えています。また、科学的にも、愛を感じる脳内物質は主に「ベータエンドルフィン」「オキシトシン」「セロトニン」といい温かい思いやりに触れて『ほっこり』と幸福を感じる時に出ているようですが、恋心を司る脳内物質が時と共に減少していくのに対し、愛を感じる脳内物質は能動的な働きかけによって、増大していく(発生しやすくなる)ものであると言われています。


物語後半、麦くんと絹ちゃんの恋の効用は徐々に減り、さらには二人の間に考え方の違いが多忙な生活の中で浮き彫りになります。麦くんは、ハードルを下げてこんなもんだ諦めて、やるべきことを優先すべきと考えている。一方絹ちゃんは、理想を追い続けていたい、やりたいことをして幸せでいたいと考えている。そんなすれ違いの状況の中で、二人がすべきだったのは、投げやりな結婚という結びつきを作ることでもなく、はたまたイケてる社長と浮気をすることでもなく、どうしたら相手が幸せを感じることが出来るだろうかと考え行動すること、つまりは能動的に「愛すること」だったのです。

どうやったら愛することができたのか?麦くんも絹ちゃんも、全くその姿勢が無かった訳ではありませんでしたが、やり方やタイミングを誤ってしまった。このように、愛は「技術」であり、誰でも学ばずに出来るものではないと、哲学者のエーリッヒフロムは明確に言及しています。プログラミングやスポーツに必要な通り、「鍛錬」を要するものなのです。

エーリッヒフロム著「愛するということ」

愛することをうまく出来なかった麦くんと絹ちゃん。もともとあった恋心の効用はゼロになり、関係は終わりを迎えました。

無題

二人楽しい時間は、お祝いの花束みたいな「恋」だったんです。受動的に降ってきて、とてもとても綺麗でした。しかし、映画で描かれていたとおり、その恋は花束のままでは、枯れて終わってしまいます。

だから

花束みたいな恋をしたその後は、鉢植みたいな愛をしよう。
恋が花束であるなら、愛はきっと鉢植ではないでしょうか。鉢植の花には、ちゃんと水をやらないといけないし、嫌な虫がつくかもしれません。放っておけば枯れてしまいます。なので、花をよくよく観察して、今どんな状態か、そしてそれに対して何が必要かを考えて、さらにそれを実際にしてあげる必要があります。それは、とても面倒で骨の折れることでしょう。でも、そうして手入れをしていけば、ちゃんと何度でも、花は咲くはずです。

鉢植みたいな愛の育て方how toは、文中引用した2冊と、こちらの書籍で絶賛勉強中です。おすすめの書籍があればぜひコメント下さい!

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