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だまされ屋さん

2022.02.23

最初は突拍子もない話で、ついていけんわ〜って思いながら読み始めた。

しかしなぜかやめられずに、終盤に入るといよいよ真打登場!!ああ、こういうことだったのか〜。なんか新しい。

「新しい家族の形」っていうより、もう、無理にこの「家族」ってものに縛られてなくていいんじゃね?自分にとって必要な人、楽しく過ごせる人と一緒に暮らせばいいんじゃね?

(この息苦しい)「家族」をいったん解体し、バラバラにして、もう一度やり直そうよ。(ぎゅうぎゅうに詰められてつぶれかけたおまんじゅうを一回全部取り出して、もう一度ちゃんと入るだけ詰め直すような)

そのための「他人」なんですねえ。(←どういう意味かは読んでね)

もうひとつのテーマは「だまされる」ということについて。

「チョンキンマンションのボスは知っている」って本、知ってます?おもろいですよ。(すいません。話しかけるように書く方が書きやすいもんで)

香港のタンザニア人コミュニティに調査に入った人類学者が書いた本なんだけど、正確な定規のような日本的価値観からするとあり得ないルースさでコミュニティが成り立っている。時間とか、そういうこともだけど、適当に「だます」「だまされる」ことを前提として、むしろそれが関係性の潤滑油のように働いている。「ま、いんじゃね?相手にも事情があんだろうからよう」って感じ。

突き詰めない。正しさを振りかざさない。追い詰めない。相手も自分もそのままで置いとく。

人間集団の知恵なんでしょうか。

日本だと「村八分」(という知恵(?))になっちゃうところを、そのままコミュニティの中にゆるして置いといて、何事もなかったかのように生活を続ける。罰さない。

「だまされ屋さん」に出てくるエピソードで印象的なのが、あるときフットサルをしている間に財布を盗まれてしまった男が激怒して犯人探し・糾弾しようとする場面があります。

そのとき、そのコミュニティの1人が歩み寄って、「誰がやったかはわからないけど、ゆるしてやってくれませんかね?ここに寄付したと思って。」と頼むのだ。

なぜなら「そいつはもう十分罰を受けてるから。」どういう罰かというと、「そいつはもうここには来れなくなってしまった。来れないということはこの居心地のいい居場所や仲間を失うということ。1万円よりずっと大きいものを失ったんです。」逆に、「もしあなたがゆるしてくれたら、ここではみんなから信頼されますよ。」そして「もしずっとあとに、どこにも行き場がなくなったそいつが決まり悪そうに現れた時には、ぼそっと、返すのはいつでもいいよって言ってやってください。そしたらそいつは二度とあんたから盗まないから」

そういうのです。

そういう考え方とか、(チョンキンマンションと似てて)私には新鮮。

「○○するべき」とか「してはいけない」とか、失敗すると「自己責任」とか、日本社会では「正しさ」が一番えらいみたいですよね。

「だまされる」と傷つく。だからもちろん人をだましてはいけない。だけど、どうしても嘘をつかざるを得ない人がいた時に、わざとだまされてあげる度量というものが、相手youも自分meも生かすことになるかもって・・・

裏返して言えば、「絶対だまされないぞ!」っていう態度も結構キツイかも。いつも正しさという仮面をかぶって生きるのも・・。それはだまされる自分を認めないことで、だます相手を許さないことで、歎異抄ではないけれど、そういう人間はいないわけで・・。

あえてだまされ屋さんになってやり過ごす、のも知恵な気がしてきたなあ・・。



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